オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第17回 オセアニアの観光開発

 このシリーズもすでに2年に及ばんとしていて、そろそろ落としどころを考えていく時期であろう。これまでで何か抜けているだろうか、と考えたとき、オセアニアの一大産業である観光に言及すべきであろうと思いついた。そして、最後となる第18回は文化財の返還、ということで幕引きを図りたい。

 オセアニア諸島の産業はといえば、かつてはハワイ、フィジーでサトウキビ栽培が盛んに行われ、また、サモアやニューアイルランド諸島などもココナツ・プランテーションの開発が行われていたが、現在は低調である。その他、特定地域での鉱物資源開発はあるものの、ほとんどの諸島社会はあまり天然資源に恵まれているとはいえず、広い耕地面積も確保できない。そうした中で、主にハワイをはじめとする観光開発は、島嶼社会の経済を大きく支えてきた*1

 

観光産業の発展と観光人類学

 観光の定義は、楽しみで旅をすること、というのが一般的であろうと思う。そこにビジネス目的を含める場合もあるらしいが、ここでは楽しみの旅行に限定したい。「物見遊山」という日本語があるように、楽しみで旅をするというのは決して新しいことではない。ただし、かつての旅は楽しみであっても大いに体力や財力が必要で、並大抵のことではなかった。探検や冒険の旅行は危険が伴うものだったし、徒歩で行くこともあるし、乗り物を使うにしても動物、あるいは馬車といった手配も大変なものだった。

 とりわけ、海外へと旅することは、探検、冒険であったが、イギリスでは17世紀初頭から19世紀初頭にかけて、貴族の子弟が学校を卒業した記念に大陸諸国を旅してまわるグランドツアーなるものが流行したという。これが、イギリスからその他の欧米諸国にも広がるようになり、やがて団体旅行へと発展した。トーマス・クックが、旅行のための宿泊、交通手段などを手配する会社をつくり、パッケージツアーを扱うようになったのは19世紀半ばのことである。

 しかしそれでも、時間もお金もかかる観光旅行は、限られた人々の特権であった。ジュール・ヴェルヌ作『80日間世界一周』の主人公はイギリス人資産家で、80日間で世界一周をするという賭けをするのであるが、当時世界一周はその日程ではとても無理と考えるのが常識だった。海外への観光旅行が手軽になったのは、航空便のネットワークが世界中に張り巡らされ、しかも運賃が安くなったおかげである。

 観光研究*2が人類学で取り上げられるようになるのは、70年代の後半であろうか。観光人類学の古典である『ホスト・アンド・ゲスト』*3の出版がそのころである。海外観光旅行の普及からやや遅れて始まっている。海外旅行が異文化間の出会いを増やし、また観光開発が現地社会に変容をもたらすという局面に至り、観光研究が始まった。応用人類学の一部と見られることが普通であるが、人類学の知見を生かして何か社会に役立てるという従来の応用人類学のスタンスよりは、人類学の知見を生かして観光という現象を分析する、という手法であろうかと思う。この小論に観光人類学の議論を多く含めることは難しいだろうが、ハワイの観光についてまず述べ、そのあとに、サモアとヴァヌアツをとりあげてみよう。

 

ハワイの観光開発――太平洋戦争以前

 19世紀後半には、有名人が多くハワイを訪れている。例えば『トム・ソーヤの冒険』のマーク・トウェイン。彼の作家デビューは、ハワイにきて紀行文を新聞に掲載したことである。『日本奥地紀行』を著したイザベラ・バードも日本に来る前にハワイを訪れて、その体験を出版している。また、『宝島』、『ジキル博士とハイド氏』で有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンは1880年代の終わりにここを訪れ、カラカウア王の客人となっている。しかしその時代のハワイ旅行は多くの困難を克服して成り立っていたのであろう。スティーヴンソンはスクーナー船をチャーターしてサンフランシスコからハワイに渡り、しばらく滞在している。その後も南海の諸島を巡り、最後はサモアに居を構えたことで知られる。

Mark Twain by AF Bradley
マーク・トウェイン。
A.F. Bradley, New York, Public domain, via Wikimedia Commons

 ハワイの観光開発については、山中速人の著書*4に詳細な情報がある。1893年にハワイ王朝を転覆させた白人勢力が、翌年ハワイ共和国を樹立した後に観光開発が始まる。有名なワイキキは、かつて王族や貴族の家もあったが、タロイモ田や養魚池が広がる湿地帯であった。ここに観光開発を行う目的で、運河を北側に掘り、その土で埋め立てを行った。この事業が完成したのは1928年のことである。ワイキキのビーチはもともと岩がごろごろしたところであったが、砂を入れて海水浴場とした。現在でも恒常的に砂を足していかないといけないと聞いたことがある。確かに遠浅では全くなく、海に入っていくと、あるところから急に足が立たなくなるから気をつけた方がよい。

Kamehameha V property at Helumoa, Waikiki, Hawaii in 1880, from- Hawaii album, p. 1, palm trees and buildings LCCN2016651389 (cropped)
カメハメハ五世所有ワイキキの地所、湿地帯であることがわかる(1880年撮影)。
Miscellaneous Items in High Demand, PPOC, Library of Congress, Public domain, via Wikimedia Commons

 

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第一号のモアナ・ホテル(合衆国歴史建造物)。
 
Waikiki, early 20th century
20世紀初め頃のワイキキ・ビーチ。
Frank Coffee, Public domain, via Wikimedia Commons

 1901年には初めてのホテル、モアナ・ホテルが完成して、カリフォルニアの金持ちがやってくるようになる。ワイキキには他にもホテルが開業していった。ハワイの財閥キャッスル&クック社の子会社がサンフランシスコとホノルルを結ぶ客船の定期便を運航した。それでも片道4日ほどかかったらしいから、現在のように日本から2泊3日、3泊4日といったスケジュールの旅行はあり得ない。ホテルに週間、月間単位で滞在するのであるから、それこそヴェブレンのいう「有閑階級」でないとハワイ観光に行くことはできなかった。

 1925年になるとモアナ・ホテルを凌駕する施設を備えた豪華なロイヤル・ハワイアン・ホテルが誕生し、ゴージャスなハワイ旅行が楽しめるようになった。まだ準州であったハワイは、先住民がいたり日本人も多かったりして、本土とは相当変わった、異なる文化を持った場所というイメージが持たれていたことは間違いない。

Jack London at Waikiki, 1915
ワイキキ・ビーチのジャック・ロンドン(1915年撮影)。
not given, Public domain, via Wikimedia Commons
 
Kahanamoku brothers at Waikiki
カハナモク兄弟。一番右のデュークはオリンピック水泳のメダル受賞者でその後、サーフィンの普及に努めた。ワイキキには銅像が建っている。
Tai Sing Loo, Public domain, via Wikimedia Commons

 ハワイの土着の音楽は、鼻笛*5を除いてパーカッションのみである。そこにチャント(詠唱)が入るものとされている。しかし、ヨーロッパ人の来航以来、ハワイではギターなど弦楽器が利用されるようになり、船員・入植者たちとの交流の中で、メロディーのある音楽が奏でられるようになった。ポルトガル人入植者が19世紀末に来島して発明したといわれるウクレレやハワイで発達したスティールギター、スラックキーギター*6などの演奏、ハワイアンの男声ファルセットの歌謡は十分エキゾチックであったと思われる。当時本土で巡業している歌手やバンドもあった。本土でハワイアンとして珍重された音楽は、ハワイではハッパハオレ音楽と呼ばれていた。ハッパはハーフ、ハオレは白人のことであるから、混血のことを指す。

 一方フラ(ダンス)は、1820年のキリスト教の到来から宣教師らによって、放縦であるとして禁止されるなどの憂き目を見てきたが、1874年から1891年まで王位にあったカラカウア王はこれを再興し、文化復興を行った。彼に捧げたフラ競技会は彼の愛称にちなんで、メリーモナーク(愉快な王様)・フェスティバルと呼ばれる。フラもハワイの呼び物だっただろう。

 順調に育ちつつあったハワイ観光であったが、そこで大恐慌(1930年代)が起こる。観光産業の宿命であるが、経済状況や疫病、交通手段の激変などによって、大きな痛手を受ける。景気の動向に左右されるのではなく、景気の動向の何倍も増幅した波を被ることになるのだ。観光客の数は一番の底では最盛期の半分に減少した。この後もハワイ観光はアップ・アンド・ダウンを繰り返すが、ちなみに今回のコロナ禍もハワイには大変な痛手となっている。

 

ハワイの観光開発――「砂糖もどき」から主たる産業へ

 真珠湾(パールハーバー)はオアフ島の南岸、ホノルルの西、車で30分程度の場所にある。ここは、19世紀の王国時代から合衆国が砂糖の優遇関税との引き替えで利用を求めていた地点で、合衆国によるハワイ併合後も重要な海軍基地とされていた。真珠湾攻撃は1941年12月8日のことで、これが太平洋戦争の始まりだった。当面の間ハワイには緊張感が走る。戒厳令が敷かれ、灯火管制が行われる。日本軍の上陸を阻止するためのバリケードを作る措置がとられ、ホテルは軍に接収された。が、やがて太平洋各地で広範に戦争が繰り広げられるようになると、後方基地としてハワイはアメリカの中で重要なポジションを占めることになる。

 山中に言わせると、逆説的であるがハワイは兵士たちの休養場所として活用されるようになり、これがハワイのマスツーリズムの幕開けであったという。確かに現在でも、軍の保養施設はワイキキの中にしっかり確保されている。当時、戦争から休暇で一時帰国の兵士のために、様々な遊興施設が作られ、ボランティアの若い女性が接客をしてくれた。ショービジネスもあったし、ハリウッドやブロードウェイで活躍する女優たちもここに慰問にやってきた。将兵たちは、写真館でエキゾチックな女性とならんで写真を撮り、故郷の家族へと送った。戦争中ながら、楽園ハワイのイメージは定着し、戦後ともなるとホテルも増えハワイ観光はさらに発展することとなる。立州となった1959年にはジェット機が就航して、航空運賃が安くなるのに反比例し、猫も杓子もハワイに来る本格的なマスツーリズム時代を迎えた。

 しかし、この頃までのハワイ経済を代表していたのは砂糖産業である。サトウキビを栽培する巨大なプランテーションが島のあちこちに存在し、サトウキビの甘い汁を搾って煮詰めたあと、工場で精製して砂糖に仕上げる。この産業のためには、プランテーションで働く労働者を大勢必要として、人口減少中のハワイ人はあてにされず、海外から大勢の年季契約労働者が導入された。その中には大勢の日系人もいる。彼らの半ば奴隷的な労働によって、この産業はささえられていた。1898年のアメリカ併合を進め、ハワイを合衆国の一部としたのは、アメリカ系市民(白人)であったが、それによって労働者たちは奴隷的身分や低賃金労働から解放されることとなった。ハワイの労賃は次第に上がっていき、他の労賃の安い国の砂糖産業と競争するのが難しくなった。そうして砂糖産業は衰退していった*7のであるが、その代替となったのが観光産業である。観光産業は砂糖もどき*8なのだ。1972年には州の観光収入が農業収入を抜いてトップとなった。

 1960年代の観光客は100万人程度であったが、それが順調に伸び、とりわけバブルの時期には日本人の観光客が急激に増えた。2020年は従来通りではないが、2019年には延べ900万人弱の観光客がここを訪れている。ちなみに日本からの客は157万人で、国別の海外観光客としては最大人数を占めている。日本人でハワイ好きという人の中にはコンドミニアムやタイムシェアを持っていて、年に数回訪れる人もいる。観光地としてのハワイの強みは、リピーターが多いことであろう。日本人観光客を当てにした日本からの資本投資も多い。観光業の地元経済への貢献という意味でいつも問題になる点である。ホテルは合衆国本土や日本の資本でできあがっていたり、買われてしまったりしていて、利益はハワイの外へと流れていく。近年では野菜や肉など州内での生産が増えて、野菜を州外から海を超えて運んでくることが減ったが、急増の観光地は食料、水、エネルギーなども外部に依存することが多く、売り上げに比して儲けは少ないことが多い。

 山中は、ハワイの楽園というイメージがどのように作られていったかについて詳細に分析している。戦前のハッパハオレ音楽の興隆があり、その上に、戦後は映画やテレビ番組が作られたが、それらは結構ロサンゼルスやハリウッドで撮影されたし、いかにも楽園ハワイのイメージがにじみ出ていた。また、ハッパハオレ音楽に乗せて踊るにしてもフラは大変ゆっくりした動作の優雅な踊りであったし、体の露出も少なかった。それに対し、露出部分が大きく、激しく腰を振って踊るタヒチアン・ダンスをそれと断らずにワイキキのフラ・ショーで演じることは多かったし、ダンサーもハワイ人であるよりも白人女性の方が多かった。

 そうした儲かればなんでもありの風潮を変えたのは、先住民運動である。1970年頃から、本土の公民権運動に触発された先住民運動がハワイにも到達して、ハワイ人たちが自らのアイデンティティに目覚め、失われた文化をとりもどす文化復興運動が展開した。これはハワイアン・ルネッサンスと呼ばれる。フラ・カヒコと呼ばれる「古代」のダンスは、既に失われていたダンスを復元したものである。

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2019年メリーモナーク・フェスティバルで1等に輝いたフラ・カヒコの演技。

 

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ハレクラニ・ホテルのサンセット・フラ・ショー(2011年)。

  若い人々が多くフラのハーラウ(クムフラと呼ばれるフラの師匠の運営するフラの学校)に参加し、フラ・コンテストに出場するようになった。ワイキキで売られている土産物にはフィリピン製やサモア製、トンガ製のものなどが結構あるが、一方でハワイ人が受け継いできた木工の技術を使ったものや、伝統文化の延長上にあるような新しいアート作品が作られ、別の場所で売られている。

 観光は伝統文化を振興するという意見と、それに対立する、観光は伝統文化を破壊するという意見がある。実際はどちらも本当だ。伝統文化を見せる機会は観光によって増えるし、観客のために練習するということもある。ダンスの担い手がダンスに専念するために収入を得るというインセンティヴは必要だ。その一方で、ホストは(お金を持っている)ゲストが見たいイメージに合わせて見せようとするので、伝統文化は変化していく。

 しかし、ハワイアン・ルネッサンス以来、ハワイ文化はハワイ人だけでないローカルの人々も享受し、切磋琢磨して自己展開する局面が高まってきている。観光客もそうした努力をリスペクトするようになってきているのではなかろうか。

 

サモア――里帰り観光

 サモア(当時は西サモアと呼ばれていた)は、独立した1962年頃には農業国となる予定であった。コプラ、カカオ、バナナなどの換金作物を育てて現金収入を得、一方で従来のタロイモ等の食料を自分達で作るサブシステンス(自給自足)を維持していけば、何とかやっていける、と建国のリーダーたちは考えていた。しかし、相当高い関税をかけているにもかかわらず、輸入はどんどん増え、しかも換金作物の価格変動が著しく、値が下がる度に人々のインセンティヴが下がるという局面に至った。その間、宗主国であるニュージーランドへの出稼ぎが増えていった。私が調査を開始した1978年には、もうニュージーランドや合衆国にサモア人コミュニティができていて、出稼ぎから定住へという流れになっていた。サモア在住の人々は海外で働く家族からの送金に依存する暮らしで、それは政府も同様であった。

 観光開発は、1990年頃に始まった。サモアの伝統文化ではホストがゲストをもてなして楽しませ惜しみなく食事をふるまうというホスト優位の関係性――ホストの持ち出しで成り立つ――があり*9、そこにゲストから金銭をとってビジネスをするという発想がなじまないと考えた政治家たちは、観光はサモアの文化にそぐわない、とずっと観光開発には後ろ向きであった。潮目が変わったのは90年代で、観光大臣となったツイラエパ・サイレレ・マリエレガオイ(現総理大臣)が観光開発を主導するために観光公社を立ち上げた。各村に道路の清掃をさせ、観光スポットの情報を集め、海外の旅行代理店と提携し、様々な行事を整え、民間との協力体制も整備した。プロモーションビデオがある。

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もう一本、

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 正直いって、他の島々のビデオもあまり大差はない。蒼い空、紺碧の海、豊かな自然、トロピカル・フルーツ、親切な住民等々。

 ただ実際に観光客に紹介する観光スポットを整備するだけでも結構な仕事量だったと思う。海岸近くにある真水の天然プールや、滝、潮吹き岩など、案内がなければ観光客は行くことができない。78年には日焼けして古びたパンフしかなかったのが、新しい案内ができ、新しい案内所ができた。そうして、観光を国の一大産業としたのである。観光開発が始まった頃は、サモアの国際収支で、移民の送金が第一位の収入であったが、現在では移民の送金と観光の2本がサモア経済をささえている。

 サモアの場合、太平洋のその他の諸島と比べて、入国管理データのうち、友人・家族訪問(visiting friends and relatives)というカテゴリーが大変多いことに特徴がある。例えば2004年の入国者10万人のうち、友人・家族訪問は3万5000人(35.1%)に対して、観光は2万9000人(28.9%)である。最近のデータでは2017年の入国者数15万8000人に対して、友人・家族訪問が5万1000人(32.2%)、観光は6万4000人(40.4%)。観光客は急激に増加しているが、依然として友人・家族訪問は多い。

 サモア特有の冠婚葬祭行事があり、そのために故郷との往来が多いということがあるかもしれない。里帰り客は親族の家に泊まるので、従来あまり観光開発の対象となってこなかったが、私は里帰りの人々も大きなマーケットであろうと思う。観光客とはお金の使い方が違うと従来は考えられていた。しかし彼らもサモアでかなりのお金を使う。里帰り客は親族の家に泊まり観光客より長く滞在するから、ホテル代はかからないと思う人もいるが、その間に大家族の暮らしから一時逃れて町のホテルに滞在することはよくある。レンタカーを借りて、島巡りなどもしばしば行う。故郷の親族を連れてレストランに行くこともある。一昔前は、レストランに行っても廻りは白人ばかりだったが、最近はサモア人も多く来店している。この中にはもちろん在住の高収入の人もいるだろうが、里帰りの人も多いだろうと思う。

 観光開発の一環としてテウイラ・ツーリズム・フェスティバルというのがあり、ダンス、合唱、スポーツなど、村や学校、教会の青年団などで作った集団でコンペティションを行い、サモア文化を紹介するものとなっている。1991年に開始して既に30年に及んでいる(ただし2020年はコロナで中止)。この行事が、欧米の観光客に楽しめるものとなっているかということについて、ずっと以前から私は疑問を持ってきた。現地のサモア人はそれこそ、この行事を心待ちにしており、ダンスの練習など半年以上前から行っている。ただ気になるのは、司会などサモア語だし、ダンスその他の出し物もディープ過ぎて、サモア文化に精通していないとその細部を楽しむことはできない。ダンスプログラムなど30分もすると観光客は席を立ってしまう。欧米白人中産階級に対して観光キャンペーンをかけたはずであるが、このフェスティバルは何なの?という感じで見ていたが、これは結果的には海外サモア人を呼び寄せるものとなっていると気付いた。以下のビデオはそうした私の疑問に答えるものである。フェスティバルを伝える番組の制作を行ったのはThe Coconut TVというオークランドにオフィスを置く、グロ―バルな太平洋移民ネットワークに資するヴァーチャルテレビ局である。サモア移民の人々がインタヴューに答えている。

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 今後ますます、2世、3世が増えていくのであるから、里帰り観光はさらに重要なものとなってくるはずだ*10

 

ヴァヌアツ――元祖バンジージャンプ

 ヴァヌアツは1980年に独立した新しい国のひとつである。観光開発も行ってはいるが、サモアよりは遅いかもしれない。

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 人類学者にとってのヴァヌアツの名物はナゴル儀礼であるが、これは上記の動画には出てこない。ナゴル儀礼はバンジージャンプの元祖である。体験した人はわずかであろうが、誰もがテレビなどで見たことがあるのではなかろうか。テーマパークの絶叫マシンにも匹敵するバンジージャンプの原型は、島嶼国ヴァヌアツのペンテコスト島南部で行われているナゴル儀礼である。以下白川千尋の報告*11に基づいて説明しよう。ナゴル儀礼は「毎年4月から5月にかけての時期に行われる。儀礼では、高さ30メートルを超える木製の櫓から、足首に蔓性植物のロープを巻き付けた男性たちが、次々に弧を描くようにして地上へ真っ逆さまにダイブする。ロープは男性たちが地面に激突する寸前に延びきり、彼らの身体、ひいては生命を守る」(p.162)。

 ナショナル・ジェオグラフィック制作の映像で見ていただきたい。

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 南部ペンテコストに宿泊施設はほとんどないし、空港からの交通は便利ではないので、ツアー会社がツアーを組んで、それに参加するという形をとる。ヴァヌアツの中でもマイナーな観光のようだ。この儀礼が着目されるようになったのは、1950年代のことであるが、当時でもじかに見た人は少ない。その頃儀礼を行っていたのは、空港からかなり離れたところにある、未だキリスト教を受け入れていない人の多いブンラップという集落である。ブンラップは、ツアー会社の要望に従って観光客を受け入れたが、最初は自分たちのための儀礼と観光客に見せる儀礼とを別に行っていた。やがて周囲のキリスト教徒の多い集落にもそれを担わせるようになる。ただ、ブンラップが本家ナゴルであることを知っているジャーナリストやドキュメンタリー作家は、ブンラップにこだわり、高い謝礼を払ってブンラップで撮影させてもらっていたらしい。複数のツアー会社と集落のリーダーとの関係。伝統文化を重視しつつ、現金収入も欲しいという矛盾。集落間の力関係の中で、本家ナゴルを保持したいブンラップのチーフDの登場などもある。チーフDはメラネシアのリーダーらしく、自分一人にナゴルの権威があると公言はしないが、実質的に文化のオーナーであることを、周囲に認めさせることに成功したようだ。ナゴル儀礼の商品化ということが「観光の中のカストム」の章のテーマである。儀礼やダンスが誰のものか、文化を所有するのが誰か、というのは伝統社会ではしばしば問われる課題である。

 しかし、ナゴル儀礼に関して、ヴァヌアツ政府は知財としてこれを世界的に認定して欲しいという野心があるらしい。世界知的所有権機構(WIPO)では現在、伝統的知識を知財として認められないか、という議論が持ち上がっている。中国は漢方を、インドはアーユルヴェーダやヨガなどについて主張している。世界中で注目され、使われているにも拘わらず、それらが知財として認められず、特許やライセンスに支払われるようなものが全く入ってこない。中国、インドと無関係のフリーライダーを利する結果となっていることに対する不満である。ヴァヌアツ政府も、バンジージャンプを考案したオーストラリア人だけが儲かるのはおかしい、と主張していると仄聞した。一国内での文化の権利というよりはずっと大きな話である。

 

むすび

 最後は観光から別な話に流れてしまったが、観光というテーマは文化の商品化と大きく結びついていて、今後ますます広がりの期待できるテーマである。フラの話に戻るが、例えばフラに関してハワイ人たちは自分達の独占にすることは考えていないらしい。フラを学びたい人たちは何人(なにじん)であろうと習うことができ、人前で踊ることも問題ない。そうやってオープンにすることによって、フラは様々なエスニックの人々に愛されることになる。マーケットが広がれば、フラの教師としての仕事も増えるし、踊るチャンスも増えるというものだ。

 

※次回は4/23(金)更新予定です。

 

*1:もう一つの島の産業は軍事基地である。ハワイに留学した1978年当初、ハワイの経済を支える第一は観光であり、第二は軍事基地であると教わった。地政治学的に島は基地として有意なのであろう。似たようなことは、グアムにも、そして沖縄にもいえることである。

*2:観光人類学の著書は最近見かけるが、オセアニア関連といえば、後述する白川千尋よりも前に出版された橋本和也(1999)『観光人類学の戦略―文化の売り方・売られ方』世界思想社、がある。

*3:Valene L. Smith ed. (1977) Host and Guest: The Anthropology of Tourism. U. Pennsylvania Press.

*4:山中速人(1992)『イメージの<楽園>―観光ハワイの文化史』筑摩書房など。

*5:ポリネシア各地に存在していて、鼻息で音を出す楽器。

*6:スティールギターはいうまでもなくギターの音を電気で増幅するのだが、ギターを抱えずに平らにおいて演奏するところが特徴である。スラックキーギターは通常のギターを用いるが、特有のチューニングを行う。

*7:次第にプランテーションは閉じていき、最後に残ったマウイ島のアレキサンダー&ボールドウィンのプランテーションは2016年暮れに操業を終了した。

*8:Ben R. Finney and Karen Ann Watson eds. (1977) A New Kind of Sugar: Tourism in the Pacific. The East-West Center and Center for South Pacific Studies, U. California, Santa Cruz.

*9:このような観光とは逆転したホストとゲストの関係は世界の他の場所においても同様に見いだせるのだが、特にポリネシアでは著しいものがある。ヨーロッパ人との接触時代に、現地の首長や王の客人となり優雅に暮らした人々がいる。カメハメハ1世の客人として活躍したアイザック・デービス、ジョン・ヤングは有名であるが、トンガの首長フィナウ・ウルカララの客人となったウィル・マリナーの冒険譚も興味深い。

*10:これについては、深い分析を行っているので、参照いただきたい。山本真鳥(2021)「グローバル・サモア世界の形成―ホームランドと移民社会の力学」『経済志林』88巻3・4合併号。近刊。法政大学経済学部学会で検索。

*11:白川千尋(2005)『南太平洋における土地・観光・文化』明石書店。

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