オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第16回 オセアニアの現代アート

 前回は古典的なオセアニア・アートについて書いたが、今回は今を生きるオセアニアの人々のアートへの取組について考えてみたい。1972年に始まった主としてパフォーミング・アーツ(歌やダンスなどの芸能)の祭典であった太平洋芸術祭(Festival of Pacific Arts)は、第7回(1996年)の西サモア大会から、視覚芸術(いわゆる絵画や彫刻などのファイン・アート)の展示を加えた。ハワイやニュージーランド、タヒチなどでは、来島した白人のアーティスト*1が様々な絵画を中心にアート活動を行っていたが、現地の人々に油絵や西欧的な彫刻が広まるのはずっと後のことである。中でもニュージーランドでは、マオリがもともと行っていた木彫は伝統文化として継承されていたが、第二次世界大戦の前から、おそらくはマオリ教育を担わせる目的でマオリ美術教師の養成が始まり、伝統文化を加味した彫刻作品が作られるようになっていた。

 戦後、1960年代にナイジェリアからパプアニューギニアに移ってきたジョージナとウリ・バイエル夫妻は、ポートモレスビーのパプアニューギニア大学で教え、学生たちにアート活動を促すと共に文化センターを学内に設立し、さらにそれはやがて国立アート・スクールへと展開した。Timothy AkisやMathias Kauageなどのアーティストがそこで育っている*2(アート作品はウェブサイトに掲載されていることが多いが、コピーライトの関係で即時に読者が見られるようにこちらのサイトに貼り付けることが難しい。リンクをつけるなどの工夫をしているが、読者自身が検索できるよう、以下アーティスト名の初出にはローマ字綴りを掲載する)。

 そのほかに、おそらくオセアニア現代アートの台風の目は、フィジーのスヴァにある南太平洋大学オセアニア・アート文化センターと、ニュージーランドの主にオークランドを中心としたオセアニア系移民のアーティスト達がつくるタウタイというNGOを中心としたアート活動などをあげることができる。さらに2016年に開催されたグアムの太平洋芸術文化祭で視覚芸術の展示はかなりの規模に発展し、その他の諸島からも多くの出品があり、確実に発展している様子が見て取れた。

 それらの全容について述べることは私の能力を遙かに超える。ここはとりあえず知っている範囲内で書くことをお許しいただきたい。

 

ユキ・キハラとそのアート

 アーティストのYuki Kiharaとオークランドで最初に会ったのは2008年の秋である。彼女はそのとき、ニューヨークのメトロポリタン美術館が彼女のセルフポートレートを3枚購入し、それをもとに単独の展覧会「シゲユキ・キハラ――生きる写真」が開催されるのでそれに出発する直前であった*3

 彼女の父は日本人の青年海外協力隊の元隊員で、母はサモア人である。二人が出会ったのはサモアで、帰国後結婚して家族としてインドネシアや日本にしばらく住んでいた。その後、父は建設会社の社員として再びサモアでODA関係の仕事をするようになったため、一家はサモアに移住した。実はユキの正式な名前はシゲユキであり、彼女はトランスジェンダー*4である。多分私はサモアに調査等で行った折に、シゲユキ少年と会っていたと思うが、キハラと聞いてすぐその記憶と結びつかなかった。私がオークランドで会ったときには、既に身なりは女性そのものであった。ファアファフィネ(サモアの男性トランスジェンダー)がいかに差別されたか、という話を聞かされた。ちょっとでもその気配があると、両親は殴って、許さないぞと怒鳴ったという。ファアファフィネに対する態度は家庭毎に違うし、一般的にはサモアの方が日本よりはずっと差別は少ないように思うが、ユキに言わせるとそんなことはないらしい。

 アーティストとしてのユキの存在は、それ以前から目立っていた。2000年に入ってからしばらくニュージーランドの古文書館などで調査をしていて、古文書館の閉まる土日には、ウェリントンにあるテパパ博物館や近郊のポリルア市――マオリも含めポリネシア人の多く住むベッドタウン――にあるパタカ美術館などを訪れており、ユキの活躍ぶりは知っていた。当時彼女はサモアの神話伝承を演じるセルフポートレートなどを発表していたが、メトロポリタン美術館の購入となった連作写真「ファアファフィネ――女性らしく」は大変衝撃的内容であった。自らを被写体とする、いわば森村泰昌ばりのものだが、森村は演じるということを最大限生かした作品を制作するのに対して、キハラのは自らの裸身を見せることで、逆にセクシュアリティの虚実を考えさせるものとなっているところが対照的である*5

 最初にユキに会った時、本業はファッションショーの企画運営だと言っていたが、その後おそらく、アートに専念するようになったと思われる。写真の他にパフォーマンスもやっていたが、その後ビデオや特殊カメラの撮影、コラージュ、リサーチと組み合わせた手法を用い、植民地主義、レイシズム、アンチLGBTQに対する批判、とパンチを効かせたアート作品で、いつも新しい企画や手法を考えていて、それを着実に実行しているところが実にすごいと思う。2回目か3回目に会ったとき、シゲユキというと男だと思われてしまうのが心外だというので、それならユキと名乗ったらどうか、シゲユキはどう考えても男性の名前だけれど、ユキは反対に男性にはない名前だから、と説明してあげたら、それ以後できる限りユキと名乗るようになったようだ。このリンクを開くとユキの活動を見ることができる。

 ユキはほとんど日本語ができず、日本文化についても日本好きの外国人が知っている程度しか知らない。しかしある意味、半分日本人であることを誇りとしているところがある。日本に来て滞在し、もっと日本を知りたいと思っているが、国際交流基金の公募に応募しても、里帰り目的の日本人としか思われず、なかなか資金が調達できないという。そして日本で展覧会などに招聘されないことに失望している。ヨーロッパ、オーストラリアなどからは度々お声がかかり、上海、台湾などでも出展したり、招かれたり様々な受賞をしている。2022年のベネチア・ビエンナーレには初の太平洋系のニュージーランド代表としての参加が決まっているのに、である。

 日本の展覧会が、アートとしては大変保守的で、著名な欧米系のアーティストに偏っているのは残念であることを第15回で述べたのであるが、これは企画する側にも、展覧会に行く側にも冒険心がなくて、どんどん新しいものを取り込めない結果となり、日本の内旋状況(インヴォリューション)*6を反映しているように思う。

 ユキは長年あたためていた、樹皮布(タパ)*7で着物を作るという日本・サモアの文化融合を考えた「サーモアの歌」という作品を完成させ、2019年11月30日~2020年1月21日にニュージーランド、ドネーディン市のミルフォード美術館にて展覧会を行った。

Yuki Kihara / サ-モアのうた (Sāmoa no uta) A Song About Sāmoa / Artist Interview on Vimeo

 これは5枚の着物の連作となっているインスタレーションで、確かに日本の着物デザインの常套とサモアのデザインとを組み合わせ、その他サモアの家や海の生物などを加えた絵柄となっている。つい先週彼女からもらったメールによれば、この作品は多くの引きがあって、現在パタカ美術館で展示中で、そのうち台湾でも展示が行われるはずだが、日本での展覧会の見通しはないとのことだ。もうひとつの祖国に顧みられないことはとても寂しいに違いない。

 

ニュージーランドのオセアニア系移民アーティスト

 長らくサモアとその移民コミュニティを含めたグローバル・サモア世界の儀礼交換を私が研究してきたことを知っている同僚たちは、私が最近オセアニア系移民アートについて研究していることを知らないかもしれないし、知って驚くかもしれない。その理由は、もともとアートに興味を持っていたということもあるが、サモア人との長い付き合いの中で、儀礼交換の呪縛に囚われていないアーティストたちと出会うことが新鮮であったからである。多くのサモア人たちは、結局サモア人であろうとすると儀礼交換に参加せざるを得ず、その結果移民側からは多くの持ち出しとなるのであるが、アーティストは別な形でサモアの伝統や文化を考えている、というところが新鮮であった。ユキはとりわけその典型かもしれない。とりわけ、儀礼交換を介して本国とつながっていると本国の社会制度や首長制の仕組に絡め取られていくのであるが、現代アートにこだわる限り、伝統を取り入れた創造は本国とは一線を画す移民のアイデンティティであるといえるかもしれない。

 ニュージーランドのオセアニア系アーティストたちの活動が活発化してくるのは、1980年代の終わり頃で、少しずつアート作品を個別に作る人々がいたが、それをネットワーク化しようとしたのが、Fatu Feu‘uというサモア系アーティストである。

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オークランド大学内ファレ・パシフィカに立つトア・パシフィカ(太平洋の勇者)、
ファツ・フェウウ作品。2008年、山本真鳥撮影。

 

 様々な悩みを抱えながらアート活動を行っている仲間を募り、タウタイ(Tautai)という団体を作った(HPのリニューアルで、アーカイヴ化されてしまったが、このアーカイヴの中にアーティスト名で検索・閲覧ができるサイトがある)。タウタイはオセアニア系のアーティスト誰もが参加可能で、メディアや流派を問わず会員となれる。展覧会の広報・情報交換や、グループ展の企画などを行い、高校生や大学生を対象にワークショップを行うという活動もしている。最初はなかなか運営も苦しかったと思われるが、次第に会員もサポーターも増え、存在感を増してきている。2019年には念願のオセアニア系のディレクターを迎え、同年3月より、第一金曜日のセミナーを行うようになったし、昨年(2020年)にはオフィスの隣にタウタイ・ギャラリーがオープンした。オープニングにはアーダーン首相の姿を見ることができる。

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オークランド工科大学南キャンパスにて、おそらくは合作。2012年、山本真鳥撮影。

 最初の頃からのメンバーには、Felipe Tohi(彫刻、トンガ)、John Pule(絵画、ニウエ)、Jim Vivieaere(絵画、キュレーション等、クック諸島、2011年没)、Michel Tuffery(絵画、彫刻、サモア+タヒチ+白人)などがいる。以下、PuleとVivieaereの短いビデオクリップを紹介しよう。

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ファオネルア・コンベンションセンター正面に立つヴァイアカリア(ヌクアロファ、トンガ)、フィリペ・トヒ作品。2012年、山本真鳥撮影。

 それぞれのアートは様々で、一筋縄でとらえることは難しい。現代アートといっても、アヴァンギャルドというよりは、現在進行形のアートという意味だが、いずれも写実やリアリズムの作品ではない。どれもがアイデンティティに大きく関わり、出身の諸島やオセアニアの造形とデザインにどう向き合うかが課題となっている。

 ジョン・プレは幼くして親に連れられニュージーランドに移民し、オークランドで幼少期から青年期を過ごす。アングリー・ヤングメンの時代を経て、出身のニウエ島の樹皮布のアートを知り強く打たれ、自らもそれを現代化した絵画の世界に入っていく。ニウエの樹皮布の生産は、既に20世紀になってから行われておらず、彼が最初に見たニウエの樹皮布は民族誌書籍の写真であった。後に、世界各地の博物館に保存されているニウエの樹皮布を、人類学者ニコラス・トーマスと共に訪ねる旅をし、書籍として出版している*8

 トンガ出身のフィリペ・トヒはニュージーランドにやってきて、非熟練労働に従事したあと、その木彫の才能を認められて、マオリのアートセンターで講師をしたりしてから、アーティストとして認められるようになった。しかしトンガ文化の探求に目覚め、帰国して、トンガなど周囲のポリネシア建築の要であるヤシロープで柱や梁を縛るララヴァの技術を学んだ。その後、ララヴァを使った創造豊かなアートを次々に発表して注目を浴びることとなったのである。

 第一世代のオセアニア・アーティストは、独学で作品を作ったものだが、その後の世代は移民二世も含め、ニュージーランドでアート教育を受ける者も多く、その多くは諸島の伝統文化からはやや距離を置いてきたように感じられる。また差別や植民地主義、社会正義といったテーマが増えてきている。たとえば、オークランド工科大学大学院在籍中のJohn Veaはトンガ出身の両親のもとニュージーランドで生まれた。パフォーマンス、インスタレーション、ビデオなどを用いた社会派のアーティストで、太平洋諸島から導入された季節労働者(フルーツもぎなどの農業に従事する)を巡るアート作品を発表している。

 また、オタゴ高等工業専門学校で教えるGraham Fletcher(絵画、サモア+白人)は、クラシックなオセアニア・アートの作品が飾ってあるいかにも白人中産階級宅の内部を描いた「ラウンジルーム・トライバリズム」という連作を発表している。場違い感と、オセアニア・アートの脱神聖性への悩ましい思い、そして何だか今でも漂うマナがない交ぜに感じられる不思議な絵である。彼とオセアニアとの距離感は例えば第一世代のフェウウとはずいぶん異なる。

 

フィジーのレッド・ウェーヴ運動

 南太平洋大学で人類学を教えていたEpeli Hau‘ofaは、オーストラリア信託統治領パプア(現パプアニューギニア)で宣教活動に従事していたトンガ人の両親の元に生まれた。ある程度の年になって、両親がトンガに帰るという話をしていて、始めて自分がトンガ人であることを自覚した、という国際派オセアニア人である。世界各地の大学で教育を受け、白人女性と結婚し、パプアニューギニアの公共放送で働く弟がいた。亡くなったときはフィジーで市民権を得ていた。

 彼はトンガ政府で働いた後にフィジーの南太平洋大学で教鞭をとり社会学や開発学を教えているうち、1997年にオセアニア芸術文化センターのセンター長となった。それ以前から、オセアニアの新しい連帯と統合についての構想をあたためていて、1994年に『現代オセアニア』誌に書いた「我らが島の海」という論文*9にその思いの丈をぶつけていた。彼が論じたのは以下のようなことである。オセアニアはほとんどが海で、各諸島に分散して住む人々はグローバルな政治権力とは無縁の暮らしを営んでおり、大国の思惑の中で植民地主義の下に右往左往せざるを得なかった。それというのも狭い領土が拡散して存在していたからである。島々を線で結ぶ限り絶望的にならざるを得ないが、むしろ我々の領域は海であると考えればよいのではないか。領海をすべて併せれば、相当に広い領域がカバーできる。そこに現在のオセアニア諸国が力を合わせてひとつの国を作れば、我々の資源も力も相当のものになるはずである。というのがその趣旨であった。

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南太平洋大学オセアニア芸術文化センター・太平洋研究学部。2017年、山本真鳥撮影。

 2003年に日本オセアニア学会の創立20周年記念シンポジウムに招待された同氏は、オセアニア芸術文化センターの設立の意図と現況に関する熱意に満ちた講演を行った。同じ内容でオセアニア学会誌に寄稿してくれてもいる*10。彼は新しいオセアニアのためにこのセンター設立を行ったという。すなわちオセアニア全体がワン・ネーションとなるためには、お互いに共通するものを作り出すことが重要な鍵となる。そこで、アートを通じてオセアニア全体のアイデンティティを作ることはできないか、と彼は考えたのである*11。このセンターはアーティストの養成をしていて、学生はもちろんであるが、学生以外の人々も参加できる。絵画に関して、画材はセンターで用意するが、参加する人は特定の地域のアートではなく、オセアニア全体を思わせるようなアートを制作することが求められる。自分の背負う文化を描いてはならず、オセアニア的な創造を行わなくてはならない。パフォーミングアーツも行われているが、ダンスにしても特定の島々のダンスの所作だけを行うことは禁じられているのだ。

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センター敷地内に飾ってあるオブジェ。2017年、山本真鳥撮影。

 まずこのセンターが有名となったのは、絵画と彫刻の作品であり、これはRed Wave Collectiveと呼ばれた。この活動について、同志社大学の渡辺文が博士論文のために詳細な研究を展開している*12。ただし残念なことに、ハウオファは2009年1月に亡くなってしまった。アート・マネジメントという裏方は実に大変な仕事である。単にアーティストを勇気付けてアドバイスをするだけでなく、展覧会をセッティングし、作品が世に出て、アーティストがそれなりの評判をとり、生活ができるようにしなくてはならず、センターの場合には画材の供給も考えなくてはならなかった。現代に生きるアーティストをバックアップするにはそのような仕事がつきまとうのである。アーティストも食べていかなくてはならない。ハウオファにはいろいろな批判もあるだろうが、もともとは研究者で作家であった彼が、そのような仕事に飛び込んで大変な思いをして頑張ったことは疑いない。

 オセアニアの絵画がフィジーで売れるとはどういうことだろうか。フィジー系フィジー人やインド系フィジー人でアートを家に飾ろうという人は決して多くはなかったと思う。また、フィジーは多くの観光客が訪れる場所でもあるが、観光客でお土産品以上の高い買い物をする人は限られていたに相違ない。センターのアーティストの作品はお土産に相当するものではなく、まさにアートであった。

 ただ、フィジーは国際機関がいくつもあり大使館もあったから、何年かの契約でフィジーにて暮らし、その想い出にとアートを持ち帰る人は常にある程度いただろう。また、インターネットの発達により、海外からの入札もあったようだ。ハウオファは展覧会を定期的に行い、アート作品をレジデントの画家から買うこともしていて、センターの運営とアーティストの面倒を見ることの間のバランスを何とかとっていたらしいことを知った。つまりフィジーにはある程度活性化できるアートのマーケットがあるのだ。

 2017年のオセアニア芸術文化センターの様子は、太平洋研究学部との合併があったためか、かなりの予算の投入があり、設備は優れたものになっていたが、視覚芸術の部門は人がほとんどおらず、以前に比べて寂しいことこの上なかった。ただし、パフォーミング・アーツの部門は活発で、ダンサーたちは海外遠征に行っているとの話であった。リンクはセンターのインスタグラムであるが、やはりダンスと音楽中心の活動となっている。

 スヴァの住宅地に21Kギャラリーというのができていた。結構ハイブローな絵を掲げている画廊で、アーティストがもうすぐ来るからといわれて待っているうちに来た画家たちの中には、渡辺文のインフォーマントだったセンターのアーティストが何人もいた。ハウオファが亡くなった後、センターはもう前と違ってしまったという。このギャラリーのような受け皿ができたのでよかったと思っていたが、インターネット情報を見る限りでは、21Kギャラリーはもう存在しないようだ。あの画家たちの活動はどうなったのだろうか。

 現在のFiji Art Councilの催しは、お土産中心になっているようである。

 

サモアでアーティストになること

 2017年の調査の折に、サモアのレウルモエガ・フォウ美術学校を訪ねた。以下、校長との談話などから得た情報である。

 サモアでは、私が調査を始めた後の80年代頃に、Ernest Coterというイタリア人の彫刻家がサモアに来て、レウルモエガ・フォウ高校(組合派教団の運営するミッション・スクール)の先生をしていたが、どうも学業の不得意な生徒が多く、むしろアートに向いているのではないかと教会に提案して敷地に美術学校を作ることに尽力したとのことである。実は当時、その美術学校の事業については全く把握していなかったので、コテルに会ったことはない。アートの才能ある子がここを出て留学までするケースもあった。現校長も、体調の悪くなったコテルが帰国する後を託されたのだが、教団が校長にするためにニュージーランドに送って修士号までとらせてくれたそうである。

 もちろん学校なので授業料はとるが、作品が売れたときは学校がコミッションを2/3取り、生徒も1/3もらえる。クルーズ船が入港するときには、作品を持っていって即売会もするとのこと。学校とはいうものの工房のようになっていて、生徒は工房の実習生のようなものなのだ。午前中1~2時間の講義があり、その後、午後3時位まで実習で、作品を作る。先生は巡回して指導を行う。絵画、彫刻、エレイ(版木から作る)、ステンドグラス等とあらゆることを習う。エレイというのは、もともと樹皮布を染色するための版木があったが、近年ではそれで布に染色したものを町で販売している。実際に板を使うよりも型抜きする前のゴムゾウリの材料を使うことが多いが、ここでは本物志向で板の彫刻から染色している。染色した布はもちろん販売する。教会を始終建て直すサモアでは、ステンドグラスは特殊なアートではなく、かなり需要のある産業である。

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レウルモエガ・フォウ美術学校にて、製作中の生徒。2017年、山本真鳥撮影。

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レウルモエガ・フォウ美術学校にて、生徒の作品。2014年、山本真鳥撮影。

 教団は学校の傍らに美術館(EFKS Fine Art Museum)も運営していて、生徒たちの作品を見ることができる。そこは入場料や撮影料を取るのである――といっても、何度か来たことがあるが、私以外の客がいたことがなく、赤字経営だろうと思う――が、おそらく欲しい作品を買うこともできるのだろう。教会は将来的には池や噴水など設置しツーリスト・アトラクションともなるよう考えているようだが、まだそこまで完成はしていない。

 かなりマーケティングを考えた教育となっているが、全くマーケティングだけではなく、作りたいアートを作る指導の体制も備えていて、作りたいものと売れるものとの間の妥協点を探っているといえるだろうか。

 モモエの画廊も訪ねた。モモエは、Momoe Malietoa von Reicheという名前なのだが、国際的にも知られた詩人・アーティストである。MADD Galleryという名の看板が立っているところに行ったのだが、彼女が出てきたので驚いた。彼女は、元国家元首マリエトア・タヌマフィリ二世(故人)の娘で、早くからニュージーランドに留学していた。本当はアート・スクールに行きたかったが、それだと奨学金が出ないので、教員養成校で美術教師となることにしたという。帰国して学校教育に携わった。アートを作るためには観察眼を養わねばならず、この力は教育の一環として重要だという。詩集や絵本の出版なども行っている。彼女は、夫がドイツ系サモア人の実業家であるので、生活とアーティストであることとの間で妥協する必要はなかったと思われる。画廊を中心にワークショップなどして、現在はアートを広める運動をしている。

 おそらく、サモアのような途上国でフルタイムのアーティストになるという選択肢はなく、その必要もなかったモモエですらなったように、美術教師というのが現実的なあり方かもしれない。モモエより先に、美術教師となったIosua Toafāも同様である。彼もまた、絵本の挿絵を描いたり*13、海外の出版社等とも活動を行ってきたが、サモアでは美術教育に携わっていた。80年代半ばにアメリカ領サモアに移住し、やはり高校の美術教師としての仕事を行いつつ、アーティストとして依頼されるままに、レストランや銀行などの公共の場に作品を提供してきた。現在病気のために絵筆は握れなくなってしまったのが残念である。自身のHPはないが、名前でググると多くの作品を見ることができる。

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トアファー氏が挿絵を描いた本。
装丁について言及がないが、おそらく彼自身が描いたと思われる。



むすび

 ユキの活躍を見ると、才能をフルに発揮して専業アーティストになりたいならば、やはり海外に移民するというのが現実的選択かもしれない。アート作品を作るならば、どこでもいいだろう、一番好ましいところで制作するに限ると思う人は多いだろうが、実際にはマーケットやメディアとどうつながるか、アートコミュニティとどう関わるかが現代のアーティストにとっては重要な課題なのだろう。

 現在の太平洋諸島であると、国内にアートマーケットは存在しないから、海外に販路がない限りは、ツーリストを相手にせざるを得ない。ツーリストは手頃な記念品を欲しがっていて、スーツケースに入らないものは買わない、となると、形や値段もそれに合わせなくてはならないことになる。そういうものを遮断して孤高を守ることもあり得るが、やはり同志は欲しいだろう。他の島々のアーティストはどのようにして売れるものと作りたいものの折り合いをつけているのだろうか。

 しかし太平洋諸島にとっての朗報は、移民社会で名をなしたアーティストが帰国していることである。ファツ・フェウウもジョン・プレも帰国してアトリエを本国に構えた。もちろん、本国に落ち着くのではなく、行ったり来たりの生活となるのだろうけれども。また、ユキはリタイアするには早すぎるが、本拠地はサモアに置いたようである。

 最後に一言。日本のアートシーンの内旋状況は是非打破すべきである。アート好きの方々は、オセアニア系移民のアートに限らず、是非とも欧米以外のアートシーンにも目を向けていただきたいし、キュレーターも是非冒険していただきたい。

 

※次回は3/5(金)更新予定です。

 

*1:この代表例はゴーギャンであろう。さらに、ホノルル美術館やテパパ博物館、オークランド美術館などには、そこまで世界的に有名ではないが19世紀に現地人や現地風景を描いた画家の作品が展示してある。

*2:Nicholas Thomas (1995, 2018) Oceanic Art. Thamas & Hudson.

*3:世界的な権威ある同美術館にて単独展覧会が開催されるのは、サモア系アーティストとして始めてであるばかりか、ニュージーランド人としても最初であり大変な快挙であった。

*4:サモアのみならず、ポリネシアにはトランスジェンダーの伝統文化がある。ファアファフィネの社会的役割等についての詳細は、山本真鳥(2004)「ジェンダーの境界域―ポリネシア社会の男の女性(マン・ウーマン)」山本編『性と文化』法政大学出版局。

*5:山本真鳥(2011)「ニュージーランド在住太平洋諸島出身アーティストの芸術の形」床呂郁哉・河合香吏編『「もの」の人類学』京都大学学術出版会。

*6:クリフォード・ギアツがジャワ農村の経済について用いた用語。コミュニティ内での互酬的な儀礼交換などを繰り返すことで、貧しい者は救済されるが、コミュニティ全体の経済発展にはつながらない。内向きに展開すること。

*7:樹皮を叩き伸ばして作る布状のもの。かつては衣料等に用いられた。表面には各諸島で異なる伝統下のデザインや染色手法を用いて、彩色絵付けがなされた。

*8:John Pule and Nicholas Thomas (2005) Hiapo: Past and Present in Nuiean Barkcloth. University of Otago Press.

*9:Epeli Hau‘ofa (1994) Our sea of islands. Contemporary Pacific 6(1).

*10:Epeli Hau'ofa (2005) The development of contemporary Oceanic arts. People and Culture in Oceania 20.

*11:この話は決して荒唐無稽ではない。パプアニューギニアは、言語が多様で多くの部族を抱えた国家であるが、独立時に建設された国会議事堂のファサードは、様々な部族文化や各地を象徴するものを現代アーティストが何人も参加して描いたアートで飾られ、ひとつの国家となることがそこに表象されている。Pamela C. Rosi (1991) Papua New Guinea's new parliament house: A contested national symbol. Contemporary Pacific 3(2).

*12:渡辺文 (2014) 『オセアニア芸術―レッド・ウェーヴの個と集合』京都大学学術出版会。

*13:C. Stuebel, Brother Herman, and Iosua Toafa (1976) Myths and Legends of Samoa. A.H. and A.W. Reed.

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