オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第14回 クーデターと民族紛争

 オセアニアは太平洋の領域にある島々とオーストラリア大陸を含んだ地理的領域で、太平洋すなわちPacific Oceanはまさに「平和の海」という意味である。この海域にヨーロッパ人としては始めて出会ったマゼランが、”Mar Pacifico” と名付けたのがその由来という。当然のことながら、太平洋にも台風やサイクロンなど暴風雨が吹きあれることもある。また、1941年から45年までは、太平洋を舞台にした悲惨な戦争が起こってもいる。それより前の時代にも、現地人の虐殺や、奴隷のための誘拐、疫病など、多くの悲劇にも見舞われている。

 しかし、そうした事実にも拘わらず、オセアニアには南海の楽園イメージがつきまとっているのはどういうわけだろう。多分、食べるものにあまり困らない(特にポリネシア、ミクロネシアについて)というイメージがあるためだろうか。戦前には、「私のラバさん、酋長の娘、・・・ヤシの木陰でてくてく踊る」という歌があったが、どうも南洋には、食べ物にあくせくせず、ゆったり気ままに暮らしているというイメージがつきまとうようだ。

 と、前置きが長くなったが、今回はそうした楽園イメージに反するクーデターと民族紛争に言及したいと思う*1

 

オセアニア諸国の欧米からの独立

 オセアニアの植民地化は16世紀に始まっているが、そこから生じた欧米の暴力から始めたら、またまた長い長い歴史の話になってしまう。ここで扱うのは第二次世界大戦終了後の現代オセアニアに留めたい。しかしそれにも過去の植民地政策が影を落としている場合がしばしばあるので、そこには言及しよう。

 オセアニアは世界の中でも独立が最も遅れていたが、 1962年に西サモアが独立し.その後フィジー(1970年)、パプアニューギニア(1975年)など20世紀の終わりに向け、次々に独立を果たしていくこととなった。オセアニアの特殊事情は、それぞれの独立が宗主国から勝ち取ったものというよりは、平和裏に独立を促されたケースが多いことにあるだろう。国連信託統治理事会は植民地の独立を勧め助けることをずっと行ってきたが、そろそろその任務の終盤にさしかかっている。現在同理事会が独立を勧告している未達成の地域は17しかないが、そのうちの6地域がオセアニアにある。グアム、アメリカ領サモア、フランス領ポリネシア、ニューカレドニア、トケラウ、ピトケアン*2である。

 宗主国が国連の後押しの下で独立を促すというケースがほとんどである中、フランスは例外的で、長い植民地としての時間を強調し、歴史上フランスと一体化しているとの主張に基づき、なかなか独立を認めない。アルジェリアもインドシナも戦争を経て独立を勝ち取っているのだ。オセアニアに残るフランスの海外領土ニューカレドニアと海外準県フランス領ポリネシアには独立運動があった。現在鎮静化してはいるものの、ニューカレドニアでは1980年代に武力闘争が存在した。一部武闘派はリビアに渡り、ゲリラ戦の訓練を受けたと言われている。1984年には首都ヌーメアで太平洋芸術祭の開催が予定されていたが、社会主義カナク*3民族解放戦線(FLANKS)が首都に迫る勢いであったために、中止のやむなきに至った、という経緯がある。その後も、FLANKSとニューカレドニア政府(フランス海外領土)との間で、厳しい対立や事件が繰り返された後、次第に融和に向けた話し合いが行われ、1998年にヌーメア協定が結ばれた。

 1998年にチバウ文化センターという大変立派な建物が完成した。国際的に有名な建築家レンゾ・ピアノの設計である。このセンターで国際会議が開催され、出席した思い出がある。英語での私の発表に、フランス語の同時通訳が入ったのは忘れられない。こんなこと空前絶後であろう。

Egrant-190-91
チバウ文化センター。
ジュズリー / CC BY-SA

 森の中にそびえるような木材を利用した建物で(しかも中は空調が効いていて、同時通訳のブースもある)、私の知っている南太平洋とは違っていた。チバウという名は、FLANKSのリーダーだったジャン=マリー・チバウを記念して名付けられた。チバウはもともとカトリックの聖職者であったが、独立運動に入るにあたり聖職をなげうった。彼はフランス政府からも頼りにされたところがあり、とりわけ死後融和のシンボル的存在*4になったということでも、アメリカ公民権運動のマーチン・ルーサー・キング牧師に似ている。

 ヌーメア協定ではニューカレドニアの自治が大幅に認められ、将来についての住民投票が約束されている。2018年の住民投票では独立反対派が多数を占めフランス残留となったが、さらに2回の住民投票が予定されている。カナクが簡単に独立に到達できないのは、彼らは人口の40%弱に過ぎず、フランス系住民が3割程度、太平洋の他のフランス植民地からの移民などもいて複雑な構成になっているからである。ちなみに全人口は27万5000人(2016年センサス)。すでに複数世代を経ているフランス系住民はカルドッシュと呼ばれ、フランス本国人とは異なる彼ら自身のアイデンティティを追求する人々も存在している*5

 2000年には、ヌーメアで太平洋芸術祭が開催された。太平洋諸国の人々にニューカレドニアの平和ぶりを見てもらうという大きな目論見があったと思われる。ヌーメアの街は観光客であふれ、ドライブに出て田舎道を走ると、牛の放牧されている牧場風景なども見られて、まさに平和そのものだった。

f:id:koubundou:20200827111907j:plain

ニューカレドニアのダンサーたち(2000年太平洋芸術祭)。山本真鳥撮影。

 

 また、タヒチも独立運動家たちのデモがエスカレートして暴動となった事件があるが、現在は沈静化している。グアムにも独立運動が存在するが、武力衝突は生じていない。

 オセアニアでむしろ目立っているのは、民族問題や分離独立運動――これも民族問題の延長上にあるといえるかもしれないが――である。基本的にポリネシアやミクロネシアでは、同じ民族内の権力闘争は存在するものの、諸島内にエスニシティの相違はあまり見られない。民族問題が生じているのは、メラネシアである。メラネシアは諸島毎に独立を勝ち取っているが、それぞれの諸島内には異なるエスニシティの集団が多く含まれた国家形成となっている。

 

3度あることは4度あったフィジーのクーデター

 フィジーは、イギリス植民地時代の19世紀後葉から20世紀初頭にかけて、サトウキビ・プランテーションの労働力としてインドから年季契約労働者を導入した。期間を限って帰国していくものが多かったが、それでもフィジーに残留する人々もいた。その結果、独立の頃にはインド系住民とフィジー系住民がほぼ半々を占めていた。その他、ポリネシア系のロツマ島人、キリバスからの移民、中国系、白人などの少数民族が存在した。人々は、人種割で決められた数の議席を人種毎に選挙を行っていて、ほぼ人口比に沿ってはいるものの、フィジー人の議席数は過半数となるように制度設計されていた。

 一方、フィジー人は土着の人々(先住民)として、フィジー全土の80%以上にもなる未開拓地を含んだ土地(native land=原住民地)を、マタンガリという伝統的父系親族集団が集団で所有する仕組みとなっており、これらの土地は売買が禁じられている。フィジー人の多くは、これらの土地で食料生産を行う一方、プランターに土地を貸し出して、プランターがインド人労働者を雇用してサトウキビ生産を行う仕組みとなっていた。独立後、インド系の人々が土地をリースしてサトウキビ・プランテーションを営むこともあったが、10%に満たない売買可能な土地を買う以外に土地を所有する方法はないのだった。

 一方で、もともと首長制を持っていたフィジー系の人々の社会は、首長層の人々と一般人との間に大きな差があり、また都市部に住む人々と農村部の人々との暮らしの差も大きかった。インド系の人々の中から商業に従事する人々も出てきて、また少数であるがインドから商人として移民する人々もいて、次第にフィジーの経済界はインド系の人々の手に牛耳られていく傾向にあった。首都スヴァの商店は、インド系の人々の経営によるものがほとんどだった。

 1970年に満を持して独立したフィジーは、高位首長であり著名な政治家のラトゥ・サー・カミセセ・マラ――植民地時代から活躍した一族の出身で、ニュージーランド、ロンドンと勉学を重ねた――が首相となり、平和に繁栄している国として、太平洋の新興独立国のお手本のような存在であった。フィジーの首都スヴァは当時ホノルルの次に大きな太平洋の都市として繁栄を謳歌していた。確か1979年に、ハワイのイースト・ウェスト・センターで開催された会議に出席されていた大柄で恰幅のよい同氏の姿を拝見したが、ユーモアを交えつつ自信たっぷりに演説する姿は大変魅力的であった。

Kamisese Mara
カミセセ・マラ。
Library of the London School of Economics and Political Science / No restrictions

 

 そのフィジーで、1987年5月に、若手の軍人将校シティヴェニ・ランブカの指導の下にクーデターが起こったという知らせは、世界中を驚かせた。少し前の選挙でラトゥ・マラの指導する同盟党の前に、労働党とインド系の国民連合党が連立を組んで立ちはばかり、ティモシ・バヴァンドラ首相が誕生した。当時総人口に対するインド系の比率は若干フィジー系より大きかったと記憶している。インド系と手を結ぶフィジー系というのは、ナショナリストのランブカには許せない存在だったのだろう。これに対応して政府が動くが、その改革が不十分だとして、9月に再びランブカはクーデターをおこし、今度はフィジーを共和国にすると宣言する。

Sitiveni Rabuka July 2016 

シティヴェニ・ランブカ(2016年)。
US Embassy Suva / Public domain

 

 こうして1970年憲法が停止され、よりフィジー系が権力を保持しやすくなるように書き換えた1990年憲法が成立するが、これを後退であると受け止めた国際社会からは大きな批判を浴びる結果となる。また、フィジー系政治家だけが政治を行う結果として政権の腐敗・汚職がはびこる。さらにまた、この間にインド系実業家などを中心とした国外移住が多く生じる。

 1992年頃にサンフランシスコでパキスタン系とインド系の夫婦にインタヴューする機会があった。第二市民として人権が多く無視されたこと、この間の大変なエクソダスの経験を聞いた。合衆国に受け入れてもらいラッキーだった、親族もオーストラリアなどに出国しているから、もう二度とフィジーに行くことは考えない、と語っていた。二人とも都市在住勤労者という前歴で、ビジネス以外の層からも出国者が相次いでいたようだ。

 インド系人材の流出を止め、経済を立て直すためにも、人権に配慮し、政治の独占も避けるような制度設計を行った憲法が1997年に成立することになる。ところが、その憲法の下で選挙を行った1999年選挙の結果、インド系のマヘンドラ・チョウドリーを首相とする政権が誕生する。翌年、チョウドリーと議員数十名を人質とするクーデターが起こる。このときの首謀者はジョージ・スペイトというフィジー系実業家――といっても白人系の血を引き、海外生活が長い――であった。ランブカのクーデターは「無血革命」であったが、スペイトは軍隊の一部を取り込み、かつ私兵集団を立ち上げて、流血に至る「暴力革命」的要素があった。

 この国のエスニック構成からして避けようのないことであるが、次第にインド系が存在感を増していくと、先住民たるフィジー系がクーデターを起こし、フィジー系に有利な憲法が誕生するが、それを実行すると国際社会からは批判を浴び、フィジー経済も打撃をうけ、その結果、人権に一定の配慮をした憲法ができる、という振り子状の往復運動を繰り返したということもできる。スペイトは軍人たるランブカと違った位置関係にあったし、フィジー社会の変質――砂糖産業から観光産業への転換や階層分化など――は否めないが、市街戦や憲法の停止、首班指名など、ここでも様々な事件が起こった後、軍隊が介入し、スペイトは逮捕され獄中につながれることになる。

 この影に軍隊の存在が見え隠れしていたが、クーデター処理で存在感が増していたフランク・バイニマラマ司令官が起こしたのが2006年のクーデターで、これが4回目となった。彼は政権の座を明け渡すよう要求し、自身を首相とする軍事暫定政権を成立させ、それまでのクーデターとは異なり、エスニック間の選挙格差をなくす憲法樹立を目指すと公言した。予定より大幅に時間を超過したため、国際社会では信用をなくして英連邦や太平洋フォーラムからもはじき出され、海外援助も受けられず苦境に立たされた。しかし2013年にはエスニック枠のない選挙を明記した憲法が制定され、2014年には民主的な総選挙が実施されたのである*6。フィジーは現在、国際社会にも復帰し経済も立て直し中である。しかし、2018年選挙で選ばれた第一党の党首がバイニマラマで首相、野党党首がランブカというのは、相当な既視感ではある。紹介するビデオには、クーデターの歴史が出てくる。

https://www.youtube.com/watch?v=R1g5je-LPhM
フィジーのクーデター文化は終わったのか?(オーストラリア公共放送、2018年)

 

 また、選挙問題は解決したといってよいが、先住民優遇の土地所有制度の問題は解決されていない。現在のフィジーの人口は88万4000人(2017年センサス)ほどで、フィジー系が56.8%、インド系は37.5%となっており、インド系の減少はかなりの数に上っている。

f:id:koubundou:20200827113358j:plain

スヴァ市内のインド的建物。2017年、山本真鳥撮影。

 私が最初にフィジーを訪れたのは1979年のことで、当時は田舎だった西サモアのアピアからやってきたこともあり、「アッ、信号がある!」「8階建ビルがある!」「タクシーにメーターがある!」と、驚きの連続だった。タクシーのメーターを除いてはアピアでもとうの昔に実現されているが、3年前にスヴァを訪れた際、タクシーのメーターがなくなっていたのは、ちょっとしたショックだった。ただし、フィジー観光の中心ナンディ空港は大変な栄えようで、空港が拡張したことは当然だが、バスターミナルは高級ホテル行きバスで埋め尽くされていた。

 

ソロモン諸島の民族紛争

 ソロモン諸島はパプアニューギニアの東に位置する島々からなる。日本人の中にはガダルカナルというとむしろ知っているという返事が返ってきそうだ。ガダルカナル島は太平洋戦争の際に日本とアメリカの間で激戦が交わされたところで、「シン・レッドライン」でその戦いは映画化されている。

 ソロモン諸島は、労働力徴集やブラックバーディング(太平洋の奴隷貿易)の被害に遭遇し、欧米の勝手な植民地争奪に巻き込まれた地域である。北ソロモンは一次ドイツに領有されていたが、19世紀末にブーゲンヴィル島とブカ島を除くすべてのソロモン諸島がイギリスの保護領となった。その後、独立を果たしたのは1978年のことである。一部ポリネシア系のアウトライヤー*7を含みつつ、それぞれの島々の中にも言語の異なる複数の部族が存在しており、国内に多様性を含みこんでいる。

 太平洋戦争時まで、植民地行政センターのおかれていたツラギ島は、日本に占領され焦土と化した。合衆国軍はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場(現在のホニアラ国際空港)を整備し、日本攻略を目指した。そのために多くの現地人労働者を必要として、マライタ島から連れてきた労働者に頼ることとなった。戦後にガダルカナル島ホニアラが首都となり、そのための都市建設に必要となった多くの労働者もマライタ島から供給された。さらに、首都の近代化とともに多くの移民がホニアラ市内に住むようになったし、独立後になるとガダルカナル島の非都市化地域にも、個別交渉により土地を借りたり購入したりして、マライタ人の集落が誕生した。ただしこのような売買・貸借は公式に行われたわけではなく、土地所有者すべての合意に基づくものでもなかった*8

 私は1985年と1995年の2回、ホニアラに短期訪問しているが、その際に役人などでも、町でサービス業に従事している人でも、ガダルカナル人ではない、という人に多く出会った。その人たちは、マライタのアレアレ人であることが多かった。アレアレはホニアラの観光名物である竹で作ったパンパイプのオーケストラ発祥の地であり、その演奏家たちもアレアレの人々に相違なかった。

 1998年末から2003年にかけて生じたいわゆる民族紛争(ethnic tension)は、長期にわたり、ガダルカナルの先住者と移住者(主にマライタ島出身者)の間で生じた武力を伴う紛争であった。賃金労働を求めて地方から異なるエスニック集団が集まってくるのは、メラネシアの首都の何処にも見られる現象である。しかし多くの場合地方からくるエスニック集団は多様な構成のマイノリティ集団であることか普通だが、ソロモン諸島の場合には移住民の多くがマライタ島出身で、ガダルカナル(先住者)対マライタ(移住者)と言う構図が出来上がったのは不幸なことであった。

 次第にマライタ人の存在が目立つ事件が生じ、地元のガダルカナル人に言わせると彼らの傍若無人は許せない、という話になっていった。そうして組織されたのが、イサタンブ自由運動(Isatabu Freedom Movement 以下IFM)である。IFMにはガダルカナル島南岸エリアの出身者が多かったという。1999年頃から彼らは主に島の北部にあったマライタ人の集落を襲撃し、人々に退去を命ずるという行為を繰り返した。避難民の多くはホニアラに逃げ込み、その総数は3万5000人にも上った。

 政府があれこれ行った努力も実を結ばず、非常事態宣言を出すと共に、国際的な支援を要請するに至った。フィジーのシティヴェニ・ランブカ元首相を中心とする使節団の仲介によりここで新和平協定が結ばれるに至った。協定の中では、マライタ人が失った家財等に対する国からの賠償と、マライタ人がマライタ島へ帰還する等の事項が盛り込まれた。マライタ島への帰還民は2万5000人、ガダルカナル人でも都市から内陸へ逃げ込む人々は1万1000人にも上った*9

 しかし事態はここでは終わらず、2000年になって、今度はマライタ・イーグル・フォース(以下、MEF)と言う武装集団が結成された。MEFは様々な勢力の寄せ集めで、統制がとれているわけでもなかったが、どちらかと言うとIFMに対抗すると言うよりは、政府に対して多額の賠償金を要求するということを主眼としていたようだった。しかし、MEFとIFMが対立するのは必然で、政府も交えた3者は三つ巴の争いを繰り広げ、流血が繰り返された。オーストラリア、タウンズヴィルにMEFとIFMの代表が集まり、タウンズヴィル和平協定を結ぶが、それもやがて無力化し、さらにその分派が覇権を争うというほとんど無政府状態に突入していった。

 結局この騒動を収拾したのは、オーストラリア、ニュージーランドをリーダーとする太平洋諸島フォーラムの諸国で、彼らは太平洋地域ソロモン諸島支援ミッション(Regional Assistance Mission to Solomon Islands 以下RAMSI)を結成して軍事介入し、武装集団から武器をとりあげ、その他政府部局などにも指導が入り、ソロモン諸島を破綻国家から救ったのである。RAMSIの軍隊の活動期間は2003年から1年足らずの間であった。被害の総計について資料間に相違があるが、ある情報では、数百人の死者、総人口の10%が避難を余儀なくされたという*10。紹介のビデオはRAMSI導入までのおおよその歴史が語られる。このビデオには多くの続編がある。

 

www.youtube.com

Helpem Fren Documentary part 1 Rebuilding a Pacific Nation

 

 この規模の民族紛争に比べたらたいしたことではなかったが、2006年にもソロモン諸島では「民族問題」が生じている。このときの標的は中国系の人々である。総選挙の直後、新しく首相となったスナイダー・リニが、中国系のビジネスマンに賄賂を送って票を買ったということが判明し、人々は中華街に押しかけて焼き討ちを行った。中国系の商人たちに搾取されていると言う意識が人々の心の底にあって、このような事件が生じたと言われている。中国政府は国外退去のためのチャーター便を用意した。このときも海外の軍隊が暴徒の鎮圧に来ている。

 しかし、2009年のセンサスによれば、ガダルカナルの人口は1999年の6万人から、9万4000人に増加しており、3000人だった都市住民は1万5000人に増えている。

 

ブーゲンヴィル等分離独立問題

 既に私自身の情報収集能力の限られた分野であるのみならず、さらに無知といってもよい地域なので、ここはさっと流してこの回の全体を補っておきたい。

 両方ともニューギニア島とその周辺に関わる。

 ひとつは、ブーゲンヴィル独立問題である。ブーゲンヴィル島は、ソロモン諸島の最も北西、ニューギニア島の東に位置する島である。北ソロモン諸島として一旦ドイツに植民地化された後、チョイズル島とサンタイザベル島がイギリスの保護領に再編された後も、ドイツはブーゲンヴィル島と隣接する小島ブカ島をドイツ領ニューギニアとして領有し続けた。その後、第一次世界大戦を経て、ニューギニア島のドイツ領がオーストラリア委任統治領となり、第二次世界大戦後は英領パプアも含め、オーストラリア信託統治領パプアニューギニアとなり、1975年にパプアニューギニアとして独立することとなった。文化的にニューギニア島に必ずしも近いとはいえないブーゲンヴィル*11は、このとき別途独立することを望んでいたが、結局そういう選択ができなかった。

 ブーゲンヴィルでは独立の少し前から、バングナ鉱山(銅、金、銀)の開発が始まり、開発会社は多国籍企業で世界2位のエルティントの子会社であった。利益の多くはパプアニューギニア政府が得ることになり、歳入全体の2割を占めていたが、そこからブーゲンヴィル政府に入る金額はごくわずかなものに過ぎなかった。しかも、周囲では環境汚染が発生し*12、また地主への補償も十分とは言いがたいものだった。住民の不満は次第に高まり、労働者へのサボタージュの呼びかけ、道路の封鎖などが行われた後、ついには1989年になると武装集団ブーゲンヴィル革命軍(Bougainville Revolutionary Army 以下BRA)が組織された。分離独立を標榜するBRAは必ずしもブーゲンヴィル全体から支持を得ていたわけではなく、地域的な立場も異なっていた。さらにパプアニューギニア政府は軍隊を現地に派遣したため、BRAは政府軍との間にゲリラ戦を仕掛けるに至った。BRAも一枚岩ではなかったため、内部抗争も激しかった。10年に及ぶ内戦・混乱の時期は、島外との接触が絶たれ、一般市民にも甚大な被害を及ぼした。略奪、放火、強姦、殺人を含む暴力が充ち満ち、人々の生活基盤は失われてしまった。紹介するビデオは、政府軍と戦うBRA側の人々である。BRAの装備には日本軍の残した物も含まれており、当然正規軍にかなうものではなかったが、地の利もあってゲリラ戦では負けていなかった。

 

www.youtube.com

破られた約束(1994)Bougainville Secessionists Fight Papua New Guinea Forces
Journeyman Pictures
(編集部注:一部、残虐なシーンが含まれています)

 

 1998年に休戦合意が成立したあと、多国籍平和監視団が数年滞在することとなった。その後、2004年には、パプアニューギニア議会でブーゲンヴィルの自治を認める決議がなされ、国際組織や各国援助を受け入れつつ、正常化に向けて動き出している。鉱山開発はストップしたままである。昨年11月には、独立の可否を問う住民投票が行われ、98%が独立を支持した。ただし、この投票は政府への拘束力はないので、現在互いに反応を見守っている状態である。最後まで停戦に応じず戦う姿勢を見せていた分派の武装集団も現在ではブーゲンヴィル政府への支持を表明している。ブーゲンヴィル自治州の現在の人口は23万4000人(2011年センサス)。

 分離独立運動はブーゲンヴィルだけではない。実はあまりニュースが伝わってこないが、ニューギニア島の西半分のインドネシア領にも長い間分離独立運動が存在している。西ニューギニアと呼ばれる地域は、インドネシアの区分ではパプア州と西パプア州となっている。パプアニューギニアの人口が728万人(2011年センサス)に対し、西ニューギニアは436万人(2014年センサス)。

 この地域は、17世紀以来のオランダ東インド会社がアジアで培ったオランダ植民地の一部となっていた。オランダはインドネシア独立の際に、西ニューギニアはその他インドネシア地域と文化や伝統が異なるという理由で、インドネシアに含めなかった。西ニューギニアのリーダー達は1970年をめざし独立準備を行っていたところが、インドネシアが反オランダ植民地主義を旗印に西ニューギニアの領有を主張し、やがて軍隊を送り併合するに至った。これは、オランダ、国連、アメリカ合衆国を巻き込んだ騒動になった。パプア州の人々の間には彼らの民族自決を希求する声も少なからず、武力闘争を含む独立運動が存在している。数々の弾圧にも拘わらず、彼らは活動を継続し、国際世論に訴えようとしているが、一方でインドネシアは海外の報道陣が入ることをできるだけ避けている様子である。紹介の事件はジャワで起こったできごとを発端としているので、広く世界に伝えられた。

 

www.youtube.comPapua Riots Sweep Eastern Indonesia
ドイツ公共放送

 

 さて、読者はいかなる感想を持たれたであろうか。オセアニアは危険なところだ、というふうに思われる方は必ずしも多くないだろう。世界は戦争と暴力、人権侵害で満ちあふれている。世界各地と比べて、オセアニアはそれほど暴力が多い地域であるということはない。しかし、脳天気な人ばかりが集まっているわけでもない。様々な悩みも抱えており、差別や貧困に悩む人々も多い。植民地化や近代化の影響もある。人権侵害を見つめる目は常に必要である。必ずしも数多いわけではないオセアニアの紛争地域についても、目を光らせていただければ幸いである。

 

※次回は10/30(金)更新予定です

 

 

*1:この先の記述に関しては、丹羽典生・石森大知編(2013)『現代オセアニアの<紛争>―脱植民地期以降のフィールドから』昭和堂、を多いに参考とさせていただいている。

*2:後2者について。3つの環礁からなるトケラウはニュージーランドの属領であるが、選挙を行い、自治政府も持っている。人口1400人(2013年センサス)であり、住民投票で独立は望まないという結果が出ている。一方、イギリスの海外領土であるピトケアンは、バウンティ号の叛乱で有名であるが、一次増加した人口も現在は50人程度であり、どうしてこのリストに入るのか理解できない。

*3:カナクとは、ニューカレドニアの先住民全体を指す。

*4:チバウはカナク独立運動内部の対立で、1989年に暗殺されている。

*5:ベネディクト・アンダーソン(白石隆・白石さや訳)(2007)『定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(書籍工房早山)は、ナショナリズムの起源として文化(言語)を据える書として取り上げられることがよくあるが、実際の記述はそれほど単純ではない。「第4章クリオールの先駆者」には、同じスペイン語を共通としながら、南アメリカ大陸諸国が19世紀に次々とスペインから独立を勝ち取っていった理由が考察されている。植民地の常として、クリオール(現地生まれの白人)の役人が本国に登用されることはほとんどなく、ニュースは本国まで到達することがなく、端的に言えば植民地の人々が本国の人々と共同体をなすという想像力を持てなかったことが示されている。ニューカレドニアも役人の多くはフランスから来たテクノクラートで、数年で栄転して戻っていく。今後のクリオール(カルドッシュ)のアイデンティティの動向には多いに興味をそそられる。

*6:2014年憲法までの簡単な憲法の流れについては、東裕(2016)「クーデター後のフィジーの民主化過程」『アジ研ワールド・トレンド』244号。

*7:オーストロネシア人が東に移住していく過程でメラネシアの島々を通り抜けていったのであるが、ポリネシアに到達して定住した後に、また西に戻って住み着いた島をアウトライヤーという。ソロモン諸島内のティコピア島やレンネル島は有名なアウトライヤーである。

*8:宮内泰介(2011)『開発と生活戦略の民族誌―ソロモン諸島アノケロ村の自然・移住・紛争』新曜社。

*9:Kieren McGovern and Bernard Choulai (2005) Case Study of Solomon Islands Peace and Conflict-related Development Analysis. Human Development Report, UNDP.

*10:Matthew Allen (2006) Contemporary histories of the conflict in Solomon Islands. Oceania 76(3).

*11:島をつけずにブーゲンヴィルといった場合は、ブーゲンヴィル島ならびにブカ島を含むものとする。

*12:銅山の開発がしばしば周囲に環境汚染を引き起こすことは、日本でも足尾鉱毒事件で経験済みである。

Copyright © 2019 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.