オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第12回 太平洋諸島と疫病

 ようやく新型コロナウィルスの第一波がおさまってきたようだ。まだ今後も第二波、第三波とあるかもしれず、危機感を払拭することはできないが、多少明るさが戻ってきている。さて、日本で感染者が少しずつ増えつつある頃、2月7日には、サモア独立国では、日本からないし日本を経由して入国する者に対して制限を設けたが、これはミクロネシア連邦、ツバルに次いで3カ国目であった*1。さらに、3月21日になると、すべての外国人の入国を禁止し、自国民居住者にも制限を設けたばかりでなく、国内にも緊急事態宣言を発し、さまざまな行動規制をもうけた*2。片岡真輝によれば、「3月10日時点で日本からの渡航者に対して入国制限を課していた国は28か国だが、その内9か国がオセアニアの国々である」*3。それらの9カ国とは、キリバス、クック諸島、サモア、ソロモン諸島、ツバル、バヌアツ、仏領ポリネシア、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦である。今回は、パンデミックへの関心が増えていると思われるので、太平洋諸島と疫病の問題を取り上げてみたい。

 

太平洋諸島の人口減少

 ジャレド・ダイアモンドの著名な『銃・病原菌・鉄』(2000、草思社)を読まれた方はすでにご存知かもしれない。この本のタイトルは、ヨーロッパ人の植民地主義的な世界制覇を成し遂げた要因を直裁に示している。欧米の文明が世界に広まったことについて述べている部分は、必ずしもこれまでの論考から大きく外れてはいないかもしれない。彼の考察のオリジナリティは、そこで、ヨーロッパ人が優れていたからである、という欧米人のエスノセントリズムを臭わせる記述ではなく、彼らの「成功」の要因を、大陸の南北軸と東西軸の比による人間や動植物の移動の流れ、植物相や動物相に起因していると示したことにあるだろう。人や動植物が南北に移動するのは、移動による気温差のバリアがあるので、なかなか難しい。文化が南北に移動したり、交錯したりすることは、東西の移動に比べて大変難しく、また動植物は南北に行き来するよりは、東西の移動の方に無理がない。だから東西に長い大陸であるユーラシア大陸にこそ文明(食料生産)が発生した、というのである。

 その結論について、異論はさまざまあろうが、銃と病原菌、鉄が太平洋諸島を植民地化するのに多いに力があったことは間違いない。太平洋諸社会はキャプテン・クックが探検して回ったとき、食糧等を調達するのに大きな鉄くぎやナイフを持参したところ、大変な人気で各地で受け入れられたという。それまで、骨角器や石器といった石器時代の道具で暮らしていた人々に、鉄器が大変な人気をもって迎え入れられたのは十分想像できる。そして、弓矢、棍棒などでの戦闘技術レベルであった太平洋諸島人にとって、ヨーロッパ人のもつ銃はまさに革命であった。最初は、ヨーロッパ人が現地の人々を大量殺戮するのに用いられたが、やがてそれらの武器は現地人の戦闘に取り入れられるようになり、それが従来の戦い以上に人口減少をもたらす結果となった。

 西欧との接触時、ポリネシアは、地域ごとに王権が誕生していたが、トンガを除いては、諸島全体を統治するような王権は存在したことがなかった。そのトンガも18世紀末より、王族や首長らが武力で権力を争う「戦国時代」を迎えた。フィジー、トンガ、タヒチ、ハワイで、覇権をもつに至り王を名乗った首長は、それぞれにザコンバウ、タウファアーハウ、ポマレ、カメハメハである。ハワイではキャプテン・クックを迎えたハワイ島のカラニオプウ王の甥のカメハメハが、従兄弟を倒して同島の王となり、その後他の島々でも戦いを繰り広げて、やがて統一王朝を樹立した。カメハメハは、いち早くヨーロッパ人のテクノロジーの力をかぎつけ、さまざまな理由でハワイに残留したヨーロッパ人――ビーチコウマーと呼ばれる、元船乗り等の太平洋風来坊――を取り立てて、彼らのアドバイスを受け入れるようになった。これが彼の成功の秘訣だと言われる。

Ratu Cakobau taken August 1869 a
フィジー王ザコンバウ
Unknown author / Public domain

 この時期に、各諸島で統一の動きが出たのはなぜか、それはやはり、対抗し切れるとは考えていなかったかもしれないが、外敵(ヨーロッパ勢力)に対抗する意味が強かったのではないだろうか。各諸島での動きが大変似ていることを考えると、火器弾薬の導入だけでは説明できない。明治維新に至る幕末の動きも、海外からの外圧あってのことであるだろう。

 このような戦闘で失われた命は、近年の研究では意外に少ないとも言われているが、戦闘そのものの数が増えたことや、それまで行われていた戦闘技術と比べられないくらい殺傷力があったことを考えると、やはり人口減少の一因であることは間違いない。

 しかし、それ以上に人口減少に大きく関わったのは病原菌である。ヨーロッパの病原菌に慣れていない太平洋諸島の人々は、感染症を次々に移されて倒れていった。キャプテン・クックが最初にハワイ諸島(当時はサンドイッチ諸島と名付けられていた)のカウアイ島に上陸したのは、1778年1月である。前年暮れに接近していたものの、海上から島を窺い、航行を続けていた。その後、カウアイを離れて北へと進み、カムチャッカ半島やベーリング海、アラスカのあたりなど北太平洋を気候の暖かい間探検して回り、1778年12月に再びハワイ諸島のマウイ島を訪れた。その時、船医が淋病を訴えてくるハワイ人を何人も診察している。1年足らずの間に、カウアイ島からマウイ島へとヨーロッパの淋病が広がったことをクックらも驚いている*4。淋病、梅毒などの性病、またその後にはインフルエンザ、ハンセン病、麻疹(はしか)、オタフク風邪、天然痘、結核、チフス、百日咳、赤痢など、我々もなじみある多くの病が、太平洋諸島にもたらされた。それら病は繰り返しヨーロッパや北米でも流行するが、その病気の波が来る度に、それら病原菌に慣れない太平洋諸島の人々は、植民者よりもずっと多くの命を落とす結果となった*5。病原菌による人口減少は、結果的にヨーロッパ人による植民地化を招く一因であるとダイアモンドも述べている。

 

カメハメハ2世の悲劇とハワイの継続的な人口減

 カメハメハ1世(大王)は、1795年にカウアイ島とニイハウ島を除いたハワイ諸島の統一に成功し、1810年には残りの島々も掌握して王国の最終的仕上げに成功する。1819年に亡くなるが、多くの妻に恵まれ望み通りの権力を掌握して人生を全うした。1世の没後、第一夫人の長男であるリホリホが後を継ぐことは織り込み済みで、彼は直ちに20代前半でカメハメハ2世となる。しかし王となったばかりの頃は、1世のお気に入りの妻カアフマヌが摂政となり、彼女と首相カライモクのいいなりになるしかなかった。しかし、1821年には彼もカアフマヌと協力して、カウアイ島の王であったカウムイアリイをだましてホノルルに拉致し、カアフマヌと結婚させて幽閉するなど、少しずつ国政に関与するようになりつつあった。次第にアメリカ合衆国の存在が大きくなる中、彼はイギリスとの友好をはかるためにロンドンに行きたいという意向を持つようになる。

Kamehameha II
カメハメハ2世
reproduction by J. J. Williams from original by John Hayter / Public domain

 1823年9月に母のケオプオーラニが亡くなると、ロンドン訪問を計画する。彼は数人の首長らとカママル王妃を伴い、11月に捕鯨船に乗船し、翌年5月にポーツマスにたどり着いた。しばしロンドンでの名所観光や観劇などして、ジョージ4世に謁見できるよう待機していたところ、カママルが麻疹にかかりあっけなく亡くなってしまった。7月8日のことである。そしてその後を追うように、落胆したカメハメハ2世も14日に亡くなった。麻疹に冒されていた一行であったが、同行していたオアフ島知事のポキの指揮の下で回復に努め、9月にジョージ4世の謁見がかなう。カメハメハ2世夫妻の遺体を乗せ、一行がイギリス海軍のフリゲート艦で帰国したのは翌1825年4月半ばであった。

 ロンドンに太平洋から賓客が訪れることはそれ以前にもあった。クックの第2回航海の際、1773年ライアテア島(ソシエテ諸島)出身のオマイがフアヒネ島からイギリス海軍のアドベンチャー号に乗船し、1774年10月にロンドンに到着した。2年の間、彼はロンドン社交界で有名人に面会したりして楽しい時を過ごし、クックの第3回航海に伴われフアヒネ島に戻った。オマイについては彼のために劇作や詩作などが行われ、現在でも当時のモテモテの雰囲気を知ることができる。

 その10年後、パラオの首長の息子リーブーが、同諸島で難破した船の船長に連れられて1784年にロンドンに到着し大変な歓待を受けたが、半年後の同年12月に天然痘にかかり亡くなっている。またクックの第1回航海の際に、海軍の帆船に乗船してニュージーランドで通訳を務めるなど、クックの役に立ったタヒチ人トゥパイアもいたが、ロンドンに向かう船の中バタヴィア(現ジャカルタ)で病没している。原因は赤痢ともマラリアとも言われている。オマイは元気にフアヒネに戻ったが、あとはいずれも病気で亡くなっているのである。

 ハワイ人の人口は、キャプテン・クックが訪れた1779年頃、20万人~40万人程度と推計されているが、1831年の初めてのセンサスの頃には13万人となっていた。しかし、1853年は、純血ハワイ人7万人、ハーフのハワイ人が1000人程度である。そこから一貫して減少傾向は継続して、19世紀の終わり頃には、ハーフ共々4万人を割り込むまでとなる。けれども、1910年の3万9000人を底に、それからは増加に転じ*6、現在は、合衆国全国で、単一でハワイ人15万6000人に対し複数帰属で52万7000人が申告しているので、底を打ってから著しい増加を見せている。ただし、本土への移住が多く、現在ハワイ州在住のハワイ人はおおよそ合衆国全土の2/3程度となっている。

 さてヨーロッパ人と接触して以来130年ほどに渡り、人口減少を続けたのは、疫病と高い幼児死亡率、ならびに出国――船乗りになって出て行く若者は存外多かった――、そして出生率の低さに起因する。

 はやり病は何度も到来したが、とりわけ1848年から49年にかけていくつもの疫病の流行が重なって大変なこととなった。メキシコで発生した麻疹が合衆国海軍のフリゲート艦の寄港によりもたらされ、まもなくカリフォルニアではやった百日咳が到来し、その後、赤痢、インフルエンザも合流して、とりわけ老人と子どもがバタバタ亡くなり、おそらく1万人の命が失われた*7

 その頃、ハワイはサトウキビ・プランテーションの開発が進むが、プランテーションで働く労働者として、ハワイ人は全く頼りにされておらず、多くの年季契約労働者が海外から調達された。中でも日本人は、時の王カラカウアが勤勉さを見込んで、日本政府に送り出しを依頼している。結果として日本人は1900年までに6万人来島して、ハワイ人人口を凌駕し、1960年まではハワイ州最大のエスニック集団であった。

 出生率の低さと短命を象徴するのは、王朝である。カメハメハ2世が麻疹で亡くなった後、まだ10歳を越したばかりの幼い弟だったカウイケアオウリがカメハメハ3世となった。カメハメハ3世は、後に憲法を制定し立憲君主国としたり、土地制度改革を行ったりし、30年近くの在位を誇るが、残念なことに子どもがいなかったので、腹違いの姉妹キナウの息子、アレクサンダー・リホリホ(1世の直系の孫)を養子に迎えていた。1855年に3世が41歳で没。その後、彼がカメハメハ4世となるが、一粒種の息子アルバートを幼くして亡くし、彼自身も1863年に気管支喘息で29歳の若さで亡くなる。彼の後は、兄のロット・カメハメハが5世となるが、1872年に妻も子もないまま42歳で亡くなる。その病の床に1世最後の直系であり、かつての婚約者であるバーニス・パウアヒ姫(第10回参照)を呼んで王朝を託そうとしたが、パウアヒは辞退する。ここでカメハメハ王朝は断絶するのである。パウアヒ自身も子どもはいなかった。

House of Kamehameha (restored)
カメハメハ3世と一族(前列中央、カメハメハ3世、左カラマ王妃、右ヴィクトリア・カママル=後のカメハメハ4世と5世の妹、後列左アレクサンダー・リホリホ=後のカメハメハ4世、右ロット・カメハメハ=後のカメハメハ5世、ヴィクトリア・カママルは5世の後継者と目されたが、20代で兄に先立つ)
Hugo Stangenwald / Public domain

 この後ルナリロが選挙で選ばれるが1年余で病没、没後の選挙でカラカウアが王となるが、カラカウア王も子どもはなく、妹のリリウオカラニを後継とした。リリウオカラニ女王も子どもがなかったため、姉妹リケリケの一粒種カイウラニ姫を後継に指名していたが、王朝が合衆国に併合された1年後の1899年にカイウラニ自身も23歳の若さで亡くなっている*8

 

ラパヌイ島の悲劇

 イースター島の名で世界中に知られたラパヌイ島の名物はモアイ像である。島の名は知らなくても、モアイ像は知っている、という人が多いに違いない。ラパヌイ島は、いわゆるポリネシアン・トライアングルの東端に位置している。他の島々からは遠い絶海の孤島で、現在はチリの領土となっている。

Easter Island map-en
ラパヌイ島地図とモアイの位置
Eric Gaba (Sting), translated by Bamse / CC BY-SA

 イースター島と名付けられたのは、この島を1722年にオランダの航海者ヤーコプ・ロッフェヘーンがヨーロッパ人として初めて訪れた時期が、イースターだったことによる。この島に多く存在する石像については、ロッヘフェーン、その後キャプテン・クックによっても報告されている。また、ロッヘフェーンの訪れた頃には、明らかにモアイ像は祖先崇拝の対象であったようだが、クックが訪れた1774年頃にはすでに像はかえりみられておらず、別なバードマンを巡る信仰が最盛期であったらしい。そのためか、ラパヌイ人は「文化財」に無関心だったようだし、以下に述べるようにこの時期は人口減少が著しく、ラパヌイ社会はそれどころではなかったかもしれない。19世紀には、像を船に積み込んで持ち去る航海者が後を絶たなかった。大英博物館にもあまり風化していない見事な1体があるが(太平洋室)、これは海軍トパーズ号探検隊が持ち帰り1869年に博物館に納めたものである。今回は、残念ながらモアイ彫像が主題ではないので、これ以上は深く立ち入らない。

Moais, Isla de Pascua. - panoramio
モアイ像
Horacio_Fernandez / CC BY

 さて、ここではラパヌイ島の極端な人口減少を扱う。病原菌もおおいに関わっているが、同時に当時南太平洋ではびこっていたブラックバーディングや労働力徴収が重なったことにより、ラパヌイ島の人口は最少で100人程度にまで減少した。

 イギリスでは、奴隷解放運動が18世紀後葉に始まり、国内では19世紀になるとすでに奴隷という制度はなくなっていたが、これを大英帝国のすべてに波及させるかどうかが問題となっていた。1807年の奴隷貿易法により奴隷貿易が違法となり、1833年に奴隷制度廃止法が定められると、大英帝国のすべてにおいて奴隷制度が廃止されることとなった。

 オセアニアの開発はアフリカの奴隷貿易の現場からは遠かったし、時代も少々ずれるので、アフリカ系の奴隷が連れてこられることはなかったが、ハワイやフィジー、オーストラリアのサトウキビ・プランテーション、ニューアイルランド島(ニューギニア島の東に隣接)やサモアのココヤシ・プランテーションなどのプランテーション開発では、現地の労働力にあまり頼れないため、労働者をどのように集めるかが常に問題となった。いずれの地域も奴隷制度以後もっぱら重宝された年季契約労働者を利用した。そして、南太平洋では、後にアジア系に転換したフィジー、サモアを除いて、主としてメラネシア――主に、ソロモン諸島、ヴァヌアツ(ニューヘブリデス諸島)など――の人々を導入した。しかし、アジア系の場合と異なり、彼らはおおむね文盲であり、契約内容をちゃんと理解してサインしたかどうかは常に問題であった。また、交易品などを持参して甲板に上がることを勧め、同意なしに出帆して誘拐する手法もしばしばみられた。形式的にサインさせた場合も含め、こうした手法で労働力を徴収することは一種の奴隷貿易であり、ブラックバーディングと呼ばれた。ブラックバーディングの場合も、正式な手続きを踏んだ場合も、メラネシア系労働者は主にオーストラリアのサトウキビ・プランテーションで働かされた。

 一方、太平洋に面したペルーは、1824年に独立し、2万5000人のアフリカ人奴隷を有していたが、1854年に奴隷解放を行い、労働力不足を迎えていた。そこにつけ込んだのが、アイルランド人のジョゼフ・C・バーンで、1862年にペルー政府の労働力徴収の免許を得ることに成功した。最初はメラネシア人を対象とするつもりであったのが、方向転換して、ポリネシアの諸島を回り、典型的なブラックバーディングを行った。他の島に比べ孤立していて、宣教師がまだ到達していなかったことから、ラパヌイ島は目をつけられたに相違ない。1862年から63年にかけて、8隻の船が1回から2回この島に来て、総勢1408人、全島民の34%を無理矢理連れ去った。

 そのうち1282人は、農業労働や家事労働のために売られた。残りはチンチャ諸島の鉱山でグアノ*9の採掘に従事させられた。ここは最悪だった。不衛生な環境下で、結核、疱瘡、赤痢の病気にかかり、栄養不良や望郷の念に駆られる中で亡くなる者続出であった。あるプランテーションに送られた322名の中では6カ月で119名が亡くなった。都会での家事手伝いなどに従事する者は子どもに感染症を移された。

 このペルーのポリネシア人ブラックバーディングは、ラパヌイ島に限らず、その他の島々にも及んでおり、総勢3500人とも推計されている。これには国際的な批判が集中した。ペルー政府は免許を取り上げ、ポリネシア人労働者を帰還させるためにカリャオ港に集めたが、当時疱瘡が発生し地域一帯で流行したため、ポリネシア人もこれが原因で多くが亡くなった。また、帰還船の中でも感染は無縁ではなかった。

 すでに大半が亡くなっていたラパヌイ人グループは、ディアマン号で1863年9月に帰還したが、到着する前に船内で85人が死亡、15名は帰還できた*10とはいえ、その中に天然痘患者がいたために再度悲劇が起こった。島に天然痘が蔓延し、1500人ほどが亡くなった。あまり大勢が天然痘にかかったので、死者をすべて埋葬することはできず、文化伝承にも支障が出た。

 さらに1864年に宣教師がやってきたが、その後に結核が流行した。1867年には、残っていた首長ラインの最後の1人が亡くなり、コミュニティとしても壊れていく。ラパヌイ人から土地を買ったと称するフランス人のデトルー=ボルニエ――仏領ポリネシア(当時は保護領)で農園経営をしている――と在住宣教師との間に権力闘争もあり、コミュニティが成り立たず、海外へ年季契約労働に出て行く人々もいた。1877年4月にはラパヌイ人は110名しかおらず、そのうち女性は26人となってしまっていた。この後デトルー=ボルニエの土地を引き継いで島の再興を図っていたタヒチ王族のアレクサンダー・サルモンは、ラパヌイ島をチリに割譲することを決定し*11、現在に至っている。110人を底に人口は回復したが、いったん失われた社会や文化を回復することはなかなか難しい。2017年センサスでは、住民が7800人、そのうちラパヌイ人と自認する人々は3500人ほどとなっている。

 

サモアの苦い経験と現在

 サモア諸島は、長らく英米独の3国の植民地化のつば競り合いの時代を経て、1899年に東西に分離し、西側がドイツ領、東側が合衆国領となった。しかし西半分は、第一次大戦のために、1914年にドイツ統治が終了してしまい、その後占領したニュージーランドの軍政下に置かれ、ベルサイユ条約を経て、ニュージーランド委任統治領となった。その切り替わりの時期に、現在の新型コロナとの関係でしばしば言及されるいわゆる「スペイン風邪」――スペインの名誉のためにスペインは発生とは無関係であることとお断りしておく――が西サモア(旧ドイツ領)に入ってきて、猖獗を極めることとなった。

 このスペイン風邪は、1918年春頃フランスからスペインに移動し、その後世界中に広まり、1919年初夏まで15カ月間続いた。世界中で5億人の人が罹患し、当時の世界人口の1/3に相当する。死者数は1700万~5000万とも言われるが、1億という説もある。日本でも5500万人がこれに罹患し、39万人が亡くなっている。

 西サモア(現在のサモア独立国、以下サモア)は、軍政下にあり、宗主国ニュージーランドでは1918年10月にこの流行が始まっていた。ニュージーランドを出航した輸送客船タルネ号はサモア、トンガ、フィジーを巡航する予定で、11月7日にサモアに到着した。当時の情報能力では、スペイン風邪のしらせはサモアに伝わっておらず、タルネ号に乗船していた罹患者が上陸し、軍政の責任者ローガン大佐は船の運んできた新聞を読んで、スペイン風邪の流行を知ったのであった。時すでに遅し、である。1週間もしないうちに、スペイン風邪はサモア人の間に広がってしまっていた。罹患率は90%を超え、人々の社会経済生活はめちゃくちゃとなった。特に若い人の罹患率・死亡率が高かった。

 太平洋諸島の中では、アメリカ領サモアが検疫に成功し、スペイン風邪をシャットアウトすることに成功した。以下のビデオクリップは、当時の様子を振り返り、アメリカ領サモアが新しいパンデミックに備えた対策をいち早くとったと伝える番組である。厳しい検疫政策をとった上で、50マイルしか離れていない隣のサモアからカヌーで密航してくる者を厳しくとりしまった。小さな隔絶されたコミュニティ故の対策である、と述べている。

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 1918年に厳しい検疫を行ったアメリカ領サモアのポイヤ司令官(アメリカ領サモアは当時海軍の軍政下)は、隣のニュージーランド軍政府に援助を申し出たが、ローガンに拒否されたという。ローガンはアメリカ領サモアとの電信も切ってしまった。後にサモア人はニュージーランドの失政を多いに責める結果となったが、これは対照的な対応が隣に存在したからでもあろう。その他の島々はどこもサモアほどでないとしても、この病気の蔓延に大変苦しみ、オーストラリア、ニュージーランドに助けを求めたにもかかわらず、それぞれ宗主国も同じ悩みを抱え、援助の手を伸ばすどころではなかった。

 それでもローガン大佐の失敗はその後も続き、ニュージーランドはテイト大佐と交代させた。ボランティアで救助活動を行う人々も、当時の医学では感染の危険を避けることはできなかったため、大きな自己犠牲を払うこととなった。現地の欧米人がさまざまな記録を残しているが、おおむね現地社会に対しては冷たい記録となっている。サモア人リーダーたちが仲間のことに無関心であるとか、患者に食べ物を与えるとか、死者を葬るといったことが行われない、と述べている*12。ただし、これは異常事態であり、住民の4人に1人が亡くなるのであれば、その呆然とした何も手につかない状況を我々は理解すべきであろうと思う。ニュージーランドでは人口の2%が失われただけであったが、それでも国家にとって大きな損失であったと今でも語り継がれているほどである。

 サモア人のニュージーランド政府に対する不満は、西サモアを東同様、合衆国の統治下に入れて欲しいという請願が行われたことにも端的に表れている。また1926年になると、独立を目指す反植民地主義のマウ運動が始まる。パンデミックでの失政もその背景としては存在しているのだろう。

 次のビデオは、ちょっと長いのであるが、前半は1918年のパンデミック、後半はマウ運動が描かれている。

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 さて、新型コロナについて、いち早く対策をとったサモア独立国については最初に紹介した通りである。確かに医療施設も十分ではないし、現在でも取り扱いできない患者はニュージーランドに送っているという事情がある。また、狭い島の中では逃げ場がない、ということもある。いち早くそのような対策をとったのは、多くの島社会では当然のことであろう。そして、主食等の食料自給は可能であるし、いざとなったら、海に潜って魚をとればよい。贅沢さえいわなければ、飢え死にすることはない、ということもある。

 しかし、サモアの場合には、昨年から今年の1月にかけて、麻疹の流行があり、手に負えないまでにひどい状況になっていたという背景がある。人口20万人のところ5700人が罹患し、83人が死亡した。ほとんどが子どもである。実は2018年に3種混合ワクチン(麻疹、オタフク風邪、風疹)の接種時にミスが出て、子ども2人が亡くなってから、ワクチン接種の反対運動が起きた。ワクチンの接種率が前年は70%を超えていたのに、19年度は30%近くまで落ちていた。子どもがバタバタ麻疹にかかるようになってからも政府の対応は鈍かったとのことである。結局、反対運動のリーダーを逮捕し、ワクチン接種を義務化してようやくおさまったのが新年を迎えた頃であった*13

 3月に用事があってサモア大使館に電話し、ついでに「えらく早く門を閉じましたね」と言うと、日本人の職員の人が「麻疹(はしか)のことがありましたから…」と答えた。幸いにも、新型コロナに関してはまだ1人も患者を出していない。

 

 

*1:読売新聞「サモア、日本からの入国制限を実施…3か国目」(2020.2.10)

*2:サモア政府保健省(http://www.samoagovt.ws/2020/03/state-of-emergency-declared/

*3:片岡真輝「オセアニア地域における新型コロナウイルスへの対応」『海外研究員レポート』IDE-JETRO(2020年4月)(https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Overseas/2020/ISQ202030_005.html

*4:マーシャル・サーリンズ(山本真鳥訳)(1993)『歴史の島々』法政大学出版局

*5:太平洋でもっとも死者が多かったのは、1875年1月~6月のフィジーの麻疹の流行で、人口の1/3が失われ、内陸ではこのために反乱が起きた。残念ながら紙面の都合で今回はとりあげない。

*6:Robert C. Schmitt (1977) Historical Statistics of Hawaii. Honolulu: University of Hawaii Press.

*7:R.C. Schmitt & E.C. Nordyke (2001) Death in Hawai’i: The epidemics of 1848-1849. The Hawaiian Journal of History 35: 1-13.

*8:1893年に、アメリカ系市民がクーデターをおこし、そこに合衆国海兵隊が動員された。リリウオカラニ女王は1895年に廃位させられ、1898年に合衆国がハワイを併合する。

*9:海鳥の糞などの化石化したもので、リン酸肥料などの原料として用いられる。

*10:Henry E. Maude (1981) Slavers in Paradise. ANU Press (ebook)

*11:Steven R. Fischer (2005) Island at the End of the World: The Turbulent History of Easter Island. Cromwell Press.

*12:Sandra M.Tonkins (1992) The influenza epidemic of 1918-19 in Western Samoa. Journal of the Pacific History 27(2): 181-197. しかし、現在のサモア人は、しつこいまでに他人の世話を焼く人々であるから、こうした記述は私には納得できない。

*13:Avi Duckor-Jones ‘Tragedy in paradise: How Samoa is faring after the measles epidemic’ Noted Feb. 5, 2020 (https://www.noted.co.nz/currently/currently-world/samoa-measles-how-its-faring-after-the-epidemic

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