オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第11回 トロブリアンド諸島の謎

 トロブリアンド諸島といっても一般の方々はご存知ないと思うが、人類学者を名乗りながら、トロブリアンド諸島を知らない人はもぐりである。というのは、アメリカ人類学の父フランツ・ボアズに並ぶイギリス社会人類学の父ブラニスラフ・マリノフスキーが参与観察の調査手法を編みだしたのがこの地の調査であり、人類学史では燦然と輝く地名であるからだ。

Wmalinowski trobriand isles 1918
トロブリアンド諸島調査中のマリノフスキー。
 Uncredited, likely Billy Hancock, a pearl trader resident of the Trobriand Islands, who died before 1929 [1]. / Public domain

 コロナウィルスの影響で図書館も閉まっているため、調べ物もままならず、ここはちょっと短い話で行こうと思っている。前回の第10回はかなり重厚なレポートだったので、今回はこれでお許し願いたい。

 

人類学研究におけるトロブリアンド諸島

 マリノフスキーを最初に有名にしたのは、『西太平洋の遠洋航海者』*1である。これはクラという慣習を取り上げたモノグラフであり、1922年の初版発行後、評判を呼び、マルセル・モースが『贈与論』を書くきっかけとなったと言われる。西を向いた極楽鳥に喩えられるニューギニア島の、尾の先あたりに広がる小さい島々をまとめてマッシム諸島と呼ぶが、クラはそこで行われる儀礼交換(慣習に沿って行われるもののやりとり)のことである。クラは島々を環状に結ぶ交換の輪で、マッシム諸島内を時計回りに廻るソウラヴァ(赤いウミギクの首飾り)と反時計回りに廻るムワリ(白い巻き貝で作った腕輪)とを相互にやりとりするのである。

National Museum of Ethnology, Osaka - Shell necklace used for Kula exchange (soulava) - Trobriand islands in Papua New Guinea - Made in the latter half of 19th Century - George Brown Collection
クラの財ソウラヴァ(国立民族学博物館ジョージ・ブラウン・コレクション)。
Yanajin33 / CC BY-SA

 

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クラの財ムワリ(『西太平洋の遠洋航海者』から)。
Bronisław Malinowski (1884-1942) / Public domain

 

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 沖縄海洋博公園海洋文化館に展示してあるトロブリアンドのクラ・カヌー。2014年、山本真鳥撮影。

 

 マリノフスキー以前は、人類学のフィールドワークは通訳を使った短期の情報収集で行われていた。彼はそれに飽き足らず、長期間じっくり腰を据えて言語能力を取得し、現地の人々の生活に参加して観察や会話から現地の人々の思考様式や行動様式をモデル化していく、参与観察という方法を編み出した。

 口頭で多くのデータを集めたことはもちろんであるが、マリノフスキーはクラの遠征にも参加して、生き生きとしたモノグラフを書いた。クラについては、第3回「オセアニアのお金の話」に書いているので、詳細はそちらを参照していただきたい。マリノフスキーはしかし、さらに母系制社会であるトロブリアンド諸島の家族生活と性の問題を扱った『未開人の性生活』*2、魂の行方、すなわち死後の世界に関する観念を描いた『バロマ』*3、フロイトへ論戦を挑んだ『未開社会における性と抑圧』*4など、何冊ものモノグラフを残している。トロブリアンドの農耕儀礼と呪文を考察した長大な『コーラルガーデンと呪術』(未邦訳)などもある。

 トロブリアンド諸島はオーストロネシア語族に属しており、メラネシアの中でも珍しく首長制をもつ社会である。母系制であることもこの社会が特別に取り上げられる要因となっている。特有のダンスを踊ることでも有名である。

www.youtube.com

 余り適当でないビデオしかないので、これは写真アルバムであるがご覧いただきたい。

 収穫祭に相当するミラマラ祭は、日本の盆行事にも似ている。死者がこの世を訪れ、人々は毎日踊り続ける。

 ヤムイモの産地としても名高く、マリノフスキーの時代既に、ニューギニア本島にヤムイモを輸出していた。また、ウリグブという習慣で、トロブリアンドで最も尊ばれるタイトゥという種類のヤムイモは、自家消費は絶対にせず、姉妹とその夫に贈るものとされている。自分とその家族のイモは妻の実家から来る。ヤムイモを多く贈られることは、その人の力量の印で、ヤムイモ小屋の数は男性の甲斐性を示す印ともなる。トロブリアンド諸島の首長(グヤウ)は一夫多妻をしたので、人の数倍、あるいは数十倍のヤムイモが集まったという。

 生殖における男性の役割を未開民族が知っているか知らないか、ということも大きな論議を呼んだ。マリノフスキーは、トロブリアンド人男性が2~3年他の島に行っていて帰ったときに赤子が生まれていても妻の不貞を疑わない、と断言し、従ってトロブリアンド人は男性の生殖における役割を知らないと主張した。これは処女懐胎の謎として、戦間期に多くの人類学者が参加した議論となった。

 また、授業でもよく取り上げる、トロブリアンド人の死後の魂の在処――諸島北方にあるツマ島に行くとされている――と、ワイワイア(胎児)として戻ってくる、という信仰も興味深い。トロブリアンド人は霊魂となって死後ツマ島で過ごした後、ワイワイアとして戻り同じダラ(母系親族集団)の女性の胎内に入って再生する。ダラへのアイデンティティは永久なのだ。

 このようにマリノフスキーによるトロブリアンド諸島のエスノグラフィーは、文化人類学者が議論を始めるときの起点であり、議論の途中に割り込む武器でもあった。つまり、文化人類学者の標準装備として重要であったわけだ。

 さて、トロブリアンドという名の由来であるが、フランスのアントワーヌ・ダントルカストーが、エスペランス号で太平洋を探検中、この諸島をヨーロッパ人として初めて訪れた時、その船の一等航海士ドゥニ・ド・トロブリアン(Denis de Trobriand)の名前をとって名付けたという。一番大きな島はキリウィナ島、その他にカイレウラ島、ヴァクタ島、キタヴァ島などがある。諸島は概ね文化を共有しており、言語名はキリヴィラ語となっている。

 

謎は深まるばかり

 さて第3回に書いたクラ交換の説明のところで、編集者からトロブリアンド諸島の位置関係について質問が出た。まず、クラの輪で結ばれた島々は、「極楽鳥の尾の先」、すなわちニューギニア島の東端のさらに東に点在する島々であるが、行政的にはミルン・ベイ州の島嶼部である。ミルン・ベイ州の州都は、本島の東端にあるアロタウである。その東に広がる島嶼群は、総称してマッシム諸島と呼ばれているが、その中にまた、いくつかの諸島が含まれている。ダントルカストー諸島、トロブリアンド諸島、アンフレット諸島、ウッドラーク島、マーシャル・ベネット諸島、ルイジアード諸島などだ*5。ただし、クラの輪に含まれるのはマッシム諸島のすべての島々ではなく、ルイジアード諸島などはマリノフスキーの時代にもミシマ島などを除いて、入っておらず、現在ではミシマ島も入ってはいない。

 さらに加えて編集者から、トロブリアンド諸島について、現在の正式名はキリウィナ諸島というのではないか、そのようにウィキペディアなどに書いてあるが、と質問された。私の理解では、キリウィナというのは、トロブリアンド諸島の一番大きな島である。私は逆立ちするほど驚いた。確かにそのように書いてある。ところが一方、英語版のウィキペディアにはそのような記載は一言もない。

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トロブリアンド諸島地図(オーストラリア国立大学アジア太平洋学部発行)。
CartoGIS, College of Asia and the Pacific, The Australian National University / CC BY-SA

 

 ちなみに、Google Scholarをググってみたが、Kiriwina Islandsで引いてみても、Kiriwina Islandしか出てこず、論文にはすべて、TrobriandsないしはTrobriand Islandsと言及されている。つまり学界ではKiriwina Islandsは存在していない。ただし意外だったのは、Encylopaedia Britannicaは、英語版も日本語版も、「トロブリアンド諸島、別名キリウィナ諸島」と書いてあるのである。

 ここで、オセアニア研究の国際的メーリングリストを使って、質問を送ってみたところ、最も新しいトロブリアンド諸島に関するモノグラフ*6を書いた、オーストラリア国立大学のモスコー教授からご返事をいただいた。私が持っていたのと同じ人類学者にとって「常識」の回答であった。彼も、キリウィナ諸島というのはきいたことがない、と断言している。最初に考えたのは、脱植民地化の動きで欧米名から現地名に変更するということが起きたが、最近変更になったばかりであまり知られていないからかもしれない、という推測だ。しかし、どうもそういうことはなさそうだ。

 ところが、そのメーリングリストに入っているかなり著名なオセアニア研究者から、モスコー教授と同じ回答をいただく反面、やはり著名な方から、それと異なるご意見をいただいた。それは、パプアニューギニアでのフィールド経験の長いオーストラリアのピーター・ドワイヤー博士であるが、両方の地図を含む資料を紹介された。

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トロブリアンド諸島の古地図(1891年)。
Queensland. Surveyor General's Office / Public domain

 

 それは1890年から1891年にトロブリアンド諸島を調査した、英領ニューギニアの行政官ウィリアム・マグレガー――彼はスコットランド出身で、アーサー・ゴードン卿の下、14年間フィジーの行政に携わったのち、ニューギニアに赴任――に関する論文*7で、彼が描いた地図が掲載されている。上の地図がそれである。そこには「キリウィナ群島(トロブリアンド諸島)」と書かれているのである。また、パプアニューギニアがオーストラリア領であった頃の1964年のオーストラリア国立大学出版会発行の地図――これもドワイヤー博士にお教えいただいた――にも「トロブリアンドまたはキリウィナ諸島」、また島の名前として、「トロブリアンドまたはキリウィナ島」と書かれている。

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パプアニューギニア領地図(1964年、オーストラリア国立大学出版会)からミルン・ベイ州を切り取った地図。

 

 ところが、一番最初のオーストラリア国立大学アジア太平洋学部がインターネット上で公開している地図には、キリウィナ諸島の名は書かれていない。

 どうも、1世紀以上前から、トロブリアンド諸島の他にキリウィナ諸島という呼び名もマイナーかもしれないが存在していたと考えるべきかもしれない。

 ちなみに、Encyclopaedia Britannicaには、更新履歴が書かれているのだが、それによれば、2008年6月11日に、エントリー自体を、Kiriwina IslandsからTrobriand Islandsに変更し、別名の箇所をTrobriand IslandsからKiriwina Islandsに変更したことになっている。すなわち、トロブリアンド諸島の名前の方がメジャーな呼び名であることを最近認識したというわけである。

 

トロブリアンド諸島の「疾風怒濤」の時代

 さらに、混乱しそうになったのは、トロブリアンド人でパプアニューギニア大学の人類学教授を務めている人にもメールを送り、彼からは直接の回答は得られなかったが、別な人が問い合わせをしたということで、興味深い又聞きの回答を得たからだ。すなわち、キリウィナ地区議会またはその後にできたキリウィナ/グッドイナフ地区議会のどちらかが、トロブリアンド諸島の代わりにキリウィナ諸島の名前を正式名として定めたが、それは多分1970年代である、という回答である。

 しばらく頭をひねっていたが、やがてこの1970年代という時代は、トロブリアンド諸島は「疾風怒濤」の時代であったことがわかり、合点がいった。トロブリアンド諸島のクリケットを描いたビデオ作品で有名となったジェリー・リーチは、この間の長いフィールドワークにおいて、トロブリアンド諸島内政治のミクロ分析を行っている*8。1975年はパプアニューギニアがオーストラリアから独立した年である。パプアニューギニアは現在861万人(2018年)の人口を抱え、2位のフィジーがおよそその10分の1の人口であるから、太平洋諸島の中の超大国であるが、国内では800以上の異なる言語集団を抱え、国内の多様性は他に類を見ないほどである。独立の前後に同国内では、様々な部族や地域的勢力が、コミュニティ内部でも、また中央政府との間でも葛藤を抱えて、ひとつの国として独立を達成するために、多くの痛みを経験した。

 リーチの論文によれば、国内的にはグヤウと呼ばれる呪術力をもったいわゆる首長が平民を支配する体制が維持されていた。地域的にはキリウィナ島の北部のいくつかの村が高い格を維持している一方で、新しく入ってきたヨーロッパ人や植民地政府、伝道本部などの近代的勢力がロスイアを中心にラグーン(礁湖)の北岸に位置していた。北部のグヤウ勢力は当然政府とは対立する関係にあった。その力関係は、さまざまな歴史的な流れの中でシーソーのように変化していた。独立準備の時代に全国に地方自治体が置かれるようになったが、その議員にグヤウが就くということを政府は当然とせず、むしろ教育を受けた人が就いたことも、近代勢力と旧勢力との間に亀裂を生んだ。また、北部キリウィナの村々とその他の地域との間にも軋轢があった。

 そのような状況下で、トロブリアンド諸島の統治機構を、最初はキリヴィラ地区議会の名にするはずだったところをキリウィナ地区議会という名にした。キリヴィラは北部キリウィナを指す語であったために、少々マイルドな名にしたのであるが、これでもキリウィナの名で呼ばれていなかった島の人々からは大きな反発を受けたのであった。

 さて、旧勢力の首長の甥で後継者のジョン・カサイプワロヴァは神童の誉れ高かった。中等教育と大学教育を途中まで留学先のオーストラリアで終えたところで1969年に彼は帰郷した。彼は北キリウィナで1972年になると生活改善と近代化を目指すカビサワリ運動を始める。カビサワリとはsearch(探す、求める、調べる)の意。ストアを運営し、交通手段の確保を行い、高校を作り、ツーリズム産業を興した。カビサワリの集会で、彼は一貫して反植民地主義の主張で人々を動かそうと演説をした。

 カビサワリ運動に対して、リーチはかなり冷ややかな眼を向けている。これら事業が危なげだったことも事実だが、カサイプワロヴァのラディカルな改革思想に人々がどれだけついて行けるかということも課題であった。カサイプワロヴァは、この改革運動と同時にパプアニューギニア大学の学生でもあった。中央政府や、近代化の動きも理解した上で、現地の主体性や独自性を主張していた。一方でグヤウの後継者でもあり、旧勢力と深いつながりがあった。カビサワリは独自の政府をもつと宣言し独自の税金を集め、また最後はキリウィナ地区議会に多くのカビサワリ・サポーターを議員として送り込み、そちらの税は集めずに、最終的には1974年に地区議会の解散を議決したのであった。

 カビサワリと反カビサワリとは対立が続き、政府も反カビサワリであったから、両者のにらみ合いは続いた。トロブリアンド諸島内で内乱が起こる寸前に至り、治安警察の一団がやって来てカサイプワロヴァはとらえられ、それに抗議する村人が暴動をおこして、全国紙で事件が報じられた。

 結局、事業の多くはつぶれてしまったが、カサイプワロヴァもこれらの経緯から学ぶところがあったのだろうか、カビサワリはやがて会社組織となり、ツーリスト相手のアートセンターを運営するなどの活動にシフトしていった。中央政府もカビサワリを目のかたきとするのではなく、中立的立場をとるようになり、緊張は緩和した。カサイプワロヴァはパプアニューギニア大学で文学を学んでいたが、在学中から詩人、劇作家として名声を得ており、独立に際して新しい国の船出を記念するようなフォークオペラ『真夜中の太陽の航海』を首都では演じている*9

 

むすび

 つまり、70年代前半、トロブリアンド諸島は「疾風怒濤」の時代だった。正式な地区議会は解散したが、後にキリウィナ・グッドイナフ地区議会が誕生した。どの時点で、キリウィナ諸島を正式名称として決議したかはリーチの論文には書かれていなかった。キリウィナ諸島という名称は、植民地時代から陰の名のように存在していたが、一般的には「トロブリアンド諸島」で通用していたのだろう。しかしその陰の名を掘り起こして、地区議会では脱植民地の趣旨で変更が行われたのかもしれないが、おそらく中央政府がそれをサポートしなければ、改名に至ることはないはずだ。1980年に出版されたThis is Papua New Guineaというパプアニューギニア政府情報局が作成した紹介本があるが、その付録の地図にも、キリウィナ諸島の名は出ていない。

 ということは、キリウィナ諸島の名は、50年近くの間に、次第に立ち消えになっていったように見える。モスコーの本に、オマラカナ村のパラマウント・チーフのサインが入っているが、そこにもトロブリアンド諸島としか書かれていない。またカサイプワロヴァ*10の出版物などにもキリウィナ諸島などとは書かれていないのだ。

 ただ、私がこんなことを書いたからといって、部外者がつけた名前を廃して現地の人々が自分たちの名前を名乗ることを排斥しているわけではない。そのような動きは脱植民地化の中でできるだけサポートしたいと考えている*11。しかし、一つの島の名前を諸島全体の名とすることは、ともすれば、諸島名と島の名前の間で混同が起きやすく不便であるのみならず、メジャーでない島々の人たち(キリウィナ島以外の島の人々)にとっては、暴挙と思えるに違いないと考えるからである。

 地名の変更はなかなか難しく、きわめて政治的である。

 

 

*1:ブロニスワフ・マリノフスキ(増田義郎訳)(2010[1922])『西太平洋の遠洋航海者』中公文庫。しかし多くの和訳本は、ブラニスラフ・マリノフスキーの名で出版されている。原題のArgonauts of the Western Pacificにある、Argonautsというのは、ギリシア神話中の金色の羊の毛皮を取りに行く使命を帯びたアルゴー号に乗って冒険に出かける乗組員のことである。

*2:泉靖一他訳、1957年、河出書房。原著は1929年。

*3:高橋渉訳、1981年、未来社。原著は1916年。

*4:阿部年晴・真﨑義博訳、社会思想社。原著は1927年。

*5:諸島の中に諸島がある、ということはしばしばある。例えば、ミクロネシアのカロリン諸島は、東西に長い諸島で南北に広がるマリアナ諸島の一番南にあるグアム島の更に南側にあり、一番西はパラオ諸島からコスラエ島までを含むが、その中にはパラオ諸島もチュック諸島も含まれている。

*6:Mark Mosko (2017) Ways of Baloma: Rethinking Magic and Kinship from the Trobriands, Hau Books.

*7:Andrew Connelly (2016) ‘Local agency and William MacGregor’s exploration of the Trobriand Islands’, in T. Shellam, M. Nugent, S. Konishi and A. Cadzow eds. Brokers and Boundaries: Colonal Exploration in Indigenous Territory, ANU Press.

*8:Jerry W. Leach (1982) ‘Socio-historical conflict and the Kabisawali Movement in the Trobriand Islands’ in R.J. May ed. Micronationalist Movement in Papua New Guinea, Research School of Pacific Studies, ANU.彼の博士論文(1978)はまさにカビサワリ運動についてであるが、これは急なことで入手できなかった。

*9:カサイプワロヴァの文学活動については、船曳建夫(1994)「国の思春期―パプアニューギニアの演劇運動」関本・船曳編『国民文化が生まれる時』リブロポートを参照。「真夜中の太陽」は主人公の名前。リンクは、同名のストーリーを浮彫りにしたカサイプワロヴァのアート作品である(オーストラリア・ビクトリア国立美術館所蔵)。

*10:ちなみに彼は現在、パプアニューギニア大学出版会の支配人を務めている。彼自身も「疾風怒濤」の時代を経て、「恐るべき子ども(アンファン・テリブル)」から、社会に影響力をもつ「知識人」に姿を変えたようだ。

*11:たとえば、イースター島がラパヌイ島と呼ばれるようになったこと、ニュージーランドがニュージーランド/アオテアロアを正式名称としたこと、ギルバート諸島の国名がキリバスとなったことなど。

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