オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第10回 『ファミリーツリー』とハワイの土地

 土地制度は社会の根幹をなすものである。ヨーロッパ人が初めて訪れたとき、ハワイは島ごとに王と王族、首長、平民(および若干の奴隷)に身分の分かれた階層社会をなし、島対島の勢力争いが随時生じている状況であった。封建的な土地制度がこの社会の基盤で、王は島をいくつもの地区に区切り、配下の首長にそのマネジメントを任せ、平民は首長からあずかる土地を耕作し貢納していた。19世紀中葉に欧米人の入植者が増え、サトウキビ産業が盛んになるにつけ、それまでの重層的な土地制度は変革が迫られ、19世紀初頭に諸島の統一を成し遂げたカメハメハ王朝は、立憲君主制を打ち立てると共に、土地の私有制に大きく舵を切る。しかし土地が売買されるようになると、それは多く欧米人の所有や管理に置かれるようになった。この経験はニュージーランドでも同様である。

 この間、王朝の弱体化の後に1893年の王朝の転覆、1898年の合衆国への併合、と推移して行く。現在のハワイ州は、当然のように合衆国憲法にのっとった私有の権利を尊重する社会であるが、一方で、ハワイの土地の半分以上が公有地であり、その他10指に入る所有者を併せると土地全体の3/4が所有されており*1、大変な寡占となっていることはハワイの土地問題の特徴である。

 今回は、これを社会問題としてではなく、日本では2012年に公開され、同年アカデミー賞やゴールデングローブ賞を受賞した『ファミリーツリー』にこと寄せて考えてみたい。

 

『ファミリーツリー』

 『ファミリーツリー』は日本語の題名で、原題はThe Descendantsという。ハワイの女性作家原作小説*2の、アレキサンダー・ペイン監督によるかなり原作に忠実な映画化である。現在でも外国人観光客の最大グループは日本人で、ハワイ・ファンは実に多いが、ハワイ社会の深層からThe Descendantsというタイトルの意味が理解できた日本人は少ないのではなかろうか。主人公は、ジョージ・クルーニー*3演じるところのマット・キング、ホノルルにオフィスを構える不動産取引を得意とする弁護士である。

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 彼は妻が水上スキーの事故で昏睡状態となり、日常生活がかき乱されている。妻に任せきりだった2人の娘(高校生と小学生)の面倒を見ることが必要だし、妻の容態は先が見えない。仕事人間だった自分について反省しきりである。妻の容態はやがて植物状態を脱することはできないと主治医に告げられ、彼女が生前用意していた契約書に従って、生命維持装置を外すことが必要となる。マットは親族や友人を自宅のパーティに招待し、意識のない妻に最後の別れをして欲しいと告げる。一方長女は、母親が浮気をしていたとマットに告げる。彼はあまりに忙しくてそういう事態になったと悔やみつつも、妻の裏切りを完全に許すことはできない。

 このストーリーの大きな背景となるのは、マットのアイデンティティに関わる親族の土地問題である。マットの高祖母(曽祖父母の母、原作では曽祖母)はカメハメハの直系子孫で、広大な土地を所有したまま宣教師の子で実業家の高祖父と結婚し、その土地は子孫に信託財産として残された。子孫たちは時に応じて土地を売り、分配金で優雅に暮らしてきた。マットはその土地の受託者(trustee)として、 7年後に閉じなければいけない信託の財産を最終的にどうするべきかという、親族一同の命運を決める必要がある。その土地というのはカウアイ島にある2万5000エーカー、一部牧場として使われているが、素晴らしいビーチに恵まれた更地である。観光目的とした複数の開発業者から購入の希望が来ているが、どの業者に売却するかを決めなくてはならない。シカゴの大きなディベロッパーの言い値が一番高いが、信託財産の恩恵に預かるべき親族たちの多くは、それよりは安い地元の業者に売る意向である。だが売却に反対している親族もいる。

 親族は集まって投票し、マットはそれに従って最終決断をすることになっていた。予想通り地元業者が多数の票を得る。しかし、最後の最後になってマットは、サインできない、これはたまたま我々の一族に権利が与えられているけれど、これを売ってしまったら我々の家族の絆は失われてしまう、という。我々はハワイ人に見えないし、ハオレ*4のようにふるまったり、私立の学校やクラブに行ったりするし、ピジン*5は得意じゃない。でもハワイ人なんだ。「ハワイのこの土地を所有していることは奇跡だ。なぜ、ハオレにかっさらわれなくてはならないんだ。」一方で彼は、妻エリザベスが大金を得ることを楽しみにしていたこと、また彼女が浮気していた相手が不動産業者で、購入希望の地元業者に売れば確実に彼が儲かることを嫌ってもいる。確たる理由は不明のままだ。

 しかし、彼はともかくも去りゆく妻を娘と共に気丈に送り、娘たちとの絆をとりもどし、何とかやっていけそうだ。ダイヤモンドヘッドを背景に、3人でカヌーを漕いで人気のないところまで行き、散骨をする。娘たちが1すくいずつ骨灰を海に入れた後、彼は豪快に容器を逆さにして、「これでおしまい」という。最後は、ソファに3人で座り、1枚の毛布をシェアし、2つのボウルに入ったシリアルを分け合って食べながら、テレビを見ている場面で終わる。

 

信託制度とハワイの土地

 信託という制度は、英米法では重要なものとなっている。日本でこの制度と関わり最近脚光を浴びているのは成年後見人制度であろう。今後、認知症になる前に誰かに家などの管理を任せるための家族信託も普及するかもしれないが、こちらはまだまだ知られてはいない。

 それ以外には、信託基金として公益的な利用に使われているものがある。私の関わる澁澤民族学振興基金は、財団法人民族学振興会の改組に伴い成立したのであるが、振興会の不動産をすべて処分し、預金と併せ信託基金とした。委託者にはもともと振興会を作った澁澤家の方にお願いし、受託者(実際の管理運営者)は信託銀行(現在は三菱UFJ信託銀行)である。私は銀行がさらに設けている運営委員会のメンバーを務めている。銀行はこの預金を運用して財産を殖やし、それを利用して民族学振興のために、授賞や研究費授与などの事業を行う。もちろん契約によって銀行は手数料を得るが、運営委員はボランティアである。残念ながら現在の金融環境では運用収入は増えず、原資を使って事業を行わざるを得ないのが残念であるが・・・

 このような信託は、charitable trustといって、実際の果実を得るのは、受賞者や研究費等を得る人々である。しかし親族内で信託がなされるprivate trustのときは、果実を得るのは本人も含めた親族である。日本では空き家問題が深刻であるし、家族信託は家の所有者が認知症になったときを想定しているよう*6で、財産管理を自分でできない人の暮らしが第一だから、必ずしも子孫が恩恵を得るとは限らないようだが、ハワイの信託というのは、大土地所有の場合が目立っており、委託者の死後、子孫が財産の運用益にあずかったり、分配したりする話だ。マットの場合は、高祖母が先祖から相続した2万5000エーカーの土地資産をさらに彼ら子孫がどう分けるか、である。空き家1軒の始末に困っている、という話ではない。大きな会社に成長した創業者一族が、会社をどうするか、という話に似ている。

 ここでキーポイントとなるのは、charitable trustは財産のある限り永続するが、private trustは年限を決めるものとされ、合衆国では最長で100年となっている。確かにだんだん代替わりとなり子孫が増えていくと、その間で意思統一を図るのも難しく、訴訟やもめごとの種になる。だから、マットの関わる信託財産も7年後に解散という予定になっているわけだ。そのとき、財産は土地であるから、20人程度の受益者(マットとそのいとこたち)が土地を区分して相続するという手もあるが、それでは土地の価値はぐっと下がるし、場所によって価値は異なるから、無価値な土地をもらう人も出てくる。仲間内でもめること必定である。牧場にしていたということは、農業にも適さない土地だったのであろう。観光開発ということが始まって、はじめて価値が上がった。

 ハワイ大学法科大学院教授のRandall Rothは「ファミリーツリーを脱構築する」*7という論文の中で、実際に映画で撮影した土地はカウアイ島キプカイで、ウオーターハウス・エステートの一部であるとしている。確かにこの土地はハワイの王族やカマアイナ*8のからんだ土地である。もともとは王族のルース・ケエリコーラニ姫(カメハメハの直系の孫)が相続したが、そのあたりの土地をまとめてカウアイ島知事だったウィリアム・H・ライスとグローヴ農場オーナーのジョージ・N・ウィルコックスに売り*9、前者はキプとキプカイを取り、後者はハイクをとった。キプカイは最後にライスの親戚の1人、ジャック・ウオーターハウス*10の手に落ちた。それまで粗放な牧場となっていた土地を本格的な牧場として成り立たせたのは彼の力だった。独身だったウオーターハウスは、自分の死後これを信託財産として、牧場の利潤を甥と姪が生きている間は彼らのものとし、彼らの死後はハワイ州に寄贈するとした。つまり、自然保護、祖先から付託された自然をそのままとっておくというマットの願望は、現実世界では既に実現が予告されていたというわけだ*11

Keelikolani in 1877, photograph by Menzies Dickson
 ルース・ケエリコーラニ姫。1877年、メンジーズ・ディクソン撮影。
Menzies Dickson / Public domain

 

 後述するようにハワイの経済開発はもっぱらサトウキビ産業――また後にはパイナップル産業もこれに加わる――によるものだったが、それがプランテーションという形態をとる結果、大規模な農地開発が行われた。さらに高地の方は牧場としての開発も行われたが、こちらも大規模土地利用である。したがって、このような土地利用の仕方から大土地所有が目立ち、主に19世紀からハワイに住みハワイを開発してきたカマアイナでハオレの話となる。

 ロス教授は、ハワイのいくつかの信託財産の行方の例を挙げてくれている。デイモン・エステートの委託者は、マットの高祖父のように銀行家だった。ケエリコーラニ姫の相続人でイトコのバーニス・パウアヒ姫の夫チャールズ・R・ビショップのビジネス・パートナーだったために、姫からホノルルのすぐ西側の土地を贈与され、さらに銀行の株券や買い足した土地があった。特にパウアヒ姫からもらった区画は、ホノルルに隣接していたがゆえに都市化と共に価値がうなぎ登りに上がった。現在ビジネスビルや商業施設、空港などが上物となっている。最終的にいくつもの裁判を経て、現金化の後に親族間で分配したが、その際一部を公共土地機構に売り、現在公園となっている。

 クヌッセン・エステートの2つのうちの1つの信託は、受託者が解散期限の際に土地を区画割りにして分配した。しばらくして、受益者が受託者を裁判で訴えた。別な方法であれば得るはずであった利潤を減じたということである。『ファミリーツリー』でマットが恐れていたのはこのような結果だろう。

 キャンベル・エステートの委託者は、エステートの経営方針をできるだけ変えないようにして欲しいという意志を残していたにも拘わらず、受託者が結構派手に投資を行ったために受益者から苦情が出た。信託の解散時にはデイモン方式か、クヌッセン方式か、と話題を呼んだが、結局、一部の受益者には現金で分配し、その他受益者は合同会社を作り、その利潤を分配する方式をとった。会社は合衆国12州にまたがり不動産業を営む。また一部森林を安価で公共土地公社に売却した。現在公園としての開園を控えている。信託解散後、会社経営に移行するケースは結構ある。

 

グレートマヘレと土地の私有

 ハワイは1778年にキャプテン・クックがヨーロッパ人としては初めてここを訪れ、西欧との濃密な接触が始まる。やがてカメハメハが勢力を伸ばし、全諸島を支配するようになり、カメハメハ王朝を築いた。カメハメハの成功は、さまざまな理由でハワイに居残った欧米人の力を借り、火器などを使いこなし、新しい戦術を身につけたためといわれている。カメハメハは多くの欧米人アドバイザーを優遇した。彼らの中にはハワイの王族から妻を迎える者もいた。後にカメハメハ4世の妻となるエマ・ナエアは、アドバイザーの1人ジョン・ヤングの孫娘である。

 カメハメハ大王(1世)は1819年にこの世を去り、20年にボストンからやってきた宣教師らが布教を始める。宣教師は、もちろんキリスト教化ということでハワイ社会を大きく変えたが、宣教師のハワイ育ちの子の中から、ハワイの実業界で活躍する人々を数多く排出し、この影響も大きかった。マットの高祖父も宣教師の子で、銀行家であったと紹介されている。

 カメハメハ3世は治政も長かったし、王朝を欧風化するのにずいぶん活躍した。1840年には、ポリネシアで始めての憲法を発布して立憲君主国としたが、その後1848年に、グレートマヘレ(「大いなる分配」の意、土地の私有化)を行った。それまでは、島を川に沿って川上から浜辺までくるむような土地(アフプアア)に区切り、アフプアア毎に首長を代官(コノヒキ)として置いて、貢納を集めさせていたが、その土地は王の土地でもあり、実質的支配者のコノヒキの土地でもあり、またそれぞれに占有し耕作する平民の土地でもあるというように、土地の権利は重層化していた。

Kamehameha III, retouched photo by J. J. Williams (PP-97-7-011)
カメハメハ3世、1850年頃。写真にJ.J.ウィリアムズが修正を加えた。
retouched photograph by J. J. Williams, based on Unknown earlier photo / Public domain

Ahupuaa of Oahu (4-color)

オアフ島アフプアア区分図。Mliu92 / CC BY-SA

 このため、欧米人がサトウキビ・プランテーションの経営をするために行う土地の売買も貸借契約も難しかった。これを解決することが、欧米人入植者の要求であったが、王自身それが近代化だと受け止めていたのではないか、と歴史家のRalph Kuykendallは考えている*12。彼によれば、グレートマヘレで行われたのは、まずは王の所有を確かめてほぼ100万エーカーを王領とし、ほぼ150万エーカーを245人の首長やコノヒキ(代官)に分け、残りの150万エーカーを政府有地としたことである。1/3を平民にも分けるものとして、直属の主人、王とコノヒキに要求することができるようにしていたが、結局手続きの煩雑さや無理解から、分配されたのは外国人も含めて3万エーカーに過ぎなかった。

 それぞれの土地は、アフプアアと呼ばれる土地区分で、川とその周囲を含めて山から浜まで、様々な生態系を含む長い土地であった。これらの土地区画を単位として、白人は土地開発を始めた。1850年からは土地の売買も解禁となった。土地開発は、サトウキビ・プランテーションおよび牧場であった。それぞれの土地に向き不向きがあるが、サトウキビは湿潤で水の豊富なあたりがふさわしく、平民の作るタロイモ田と競合した。牧場、また1900年頃から始まったパイナップルのプランテーションも水はけのよいやや高い土地の方が向いていた。それら開発の実際にハワイ人地主が関わることはあまりなかった。ただし、土地はリースも大変安価だったから、ハワイ人地主からのリースでプランテーション経営が行われることも多かった。1893年の王国簒奪までに67万エーカーの政府有地が売却され、1890年までに政府有地と王領を併せ75万エーカーがリースに出された*13

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オアフ島アイエアのサトウキビ・プランテーション、遠くにパール・ハーバーが見える。
1915年、J.J. ウィリアムズ撮影(ハワイ州立古文書館デジタル・コレクション)。

 サトウキビ・プランテーションの経営は、まさに農業の資本主義的経営であり、規模の強みを生かしてサトウキビだけを大量生産する。そのために労働者を使うが、当時のハワイ人は人口減少が著しく、代わりに海外から移民労働者を年季契約で連れてくる方策がとられた。だからハワイには様々な国から来た移民の子孫がいる。ポルトガル系、プエルトリコ系、中国系、日系、コリア系など。年季契約制度が終了した後もフィリピンから移民労働者が来た。こうした体制で、ハワイの砂糖産業は成り立っていた。またプランテーションには、輸送のための機関車やトロッコ、サトウキビを絞る機械、汁を煮詰める装置などの巨大投資が有効で、合併や買収を重ねて、しまいにハワイ残ったのは、ビッグ5と呼ばれる5社であった。それらは、キャッスル&クック社、アレクサンダー&ボールドウィン社、C・ブルワー社、アメリカン・ファクターズ社、テオ・H・デービス社である。彼らは準州を支配するとまで言われ、第二次世界大戦の終了に至るまでハワイ準州を牛耳った。

Samuel T. Alexander and family
A&B社創立者の1人サミュエル・T・アレクサンダーとその家族。1882年頃撮影。 
credited to Alexander & Baldwin Inc. / Public domain
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シュガー・バロン(サトウキビ長者)ゲイロード・パーク・ウィルコックスの館。現在は観光施設。
カウアイ、2012年、山本真鳥撮影。

 

サトウキビ産業の繁栄のあと

 ハワイの歴史は、先住民が次第に力を失う喪失の歴史として描かれることが多い。それはつまり欧米人の勢力、外部勢力に支配されるようになったということから導き出される。しかし、興味深いのは、アメリカ合衆国が1900年にハワイを準州としたあと、また1959年の立州後、先住民や移民労働者の権利は本土に遅れながらであるが次第に解放されていくということである。つまり、支配を深めるアメリカ合衆国が「人権」を重んじることを国是としているために、アメリカ合衆国の支配が深まると人権が解放されていくという逆説なのである。

 まず、準州となるにあたって、それまで財産規程があって投票が出来なかった多くのハワイ人は投票ができるようになる。財力があろうがなかろうが市民権に変わりはないというのが合衆国の民主主義である。それが、王朝が簒奪された直後に、ジョナ・クヒオ王子が上院議員に選出された理由だ。ハワイ人はクヒオ王子に票を投じた。

 一方、投票できるのがヨーロッパ語もしくはハワイ語の読み書きのできる者という条件をクリアできなかった日系を含むアジア系移民の多くは投票から疎外されていた。しかしながら、アジア系の多くは年季契約*14という半ば奴隷的な契約に縛られてハワイにやってきたのであるが、準州となってからは、奴隷制と同等に見なされる年季契約制は廃止された。移動の自由、職業選択の自由が認められたのである。

 戦間期に労働争議が増え、ストライキが必ずしも勝利に結びついたとはいえないが、ビッグ5の陰の譲歩――労働者の主張は退けたが、実質的に賃上げは行った――により、少しずつ賃上げが実現されていたのも事実である。しかし、プランテーション労働者の権利という点で大きかったのは、第二次大戦直後の1946年に本土の労働組合の支援を受けて、始めてエスニック横断的な労働組合が結成されたことである。

 その後、州昇格の議論が起こったとき、白人エリート層は日系人の勢力拡大を嫌って反対が多かったが、ビッグ5は連邦議会でのハワイ選出議員の勢力伸長(その結果の経済躍進)を狙って州昇格を支持したという。いずれにしても州昇格は住民投票による94%の賛成で決したが、そのとき投票用紙に独立という選択肢はなかったため、先住民の自決権は永久に失われてしまったという指摘もある*15

 しかし一方、州昇格により最低賃金は本土と同じになり、ハワイの労働者はきわめて高い労賃を享受するようになった。結果として安い労賃に支えられていた砂糖産業は次第に立ち行かなくなる。プランテーションは次々に廃業となりビッグ5は衰退の一途を辿った。ビッグ5は共和党と結びついていたが、戦後ハワイは民主党の大きな票田となり、日系人政治家も多くは民主党に所属している。つまりビッグ5の見通しは甘かったのである。

 アレクサンダー&ボールドウィン社は、ビッグ5の他3社が合同で所有していたマトソン汽船会社を買収し、どの会社も次々にサトウキビ・プランテーションを閉鎖せざるを得ないなか頑張っていた。A&B社がマウイ島でハワイ州最後のサトウキビ・プランテーションの操業を閉じたのは、2017年のことである。それ以前から経営の多角化を図っていたが、現在はさまざまな関連事業を行う不動産会社となっている。

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アレクサンダー&ボールドウィン社のマウイ島砂糖博物館庭に残るサトウキビ刈り取り用の機械の一部。
2011年、山本真鳥撮影。

 

 キャッスル&クック社も、宣教師の子たちが作った会社である。広くサトウキビ・プランテーションの経営に当たった後、パイナップル栽培で儲けたジェームズ・ドールの会社を買収して、一時はドール食品のブランドで世界中に事業展開をする多国籍農業会社であったが、本体の砂糖産業が立ちゆかなくなり、会社としては細りゆくばかりだ。アジアのドールブランドは現在伊藤忠商事のものとなっている。オアフ島に残るドール・プランテーションは観光施設である。キャッスル&クック社は、島中でパイナップルを作っていたラナイ島のほとんどすべて8万9000エーカーを、2013年にIT長者でオラクル社の元CEOラリー・エリソンに売却した。その他3社は、別会社に買収されたり、倒産や解散を余儀なくされたりしてもっと情けない。

 カウアイ島やマウイ島をドライブすると、野生化したサトウキビ畑があちこちに目立つ。これら広大な耕作放棄地はどうなってしまうのだろう。またサトウキビ産業衰退後のハワイの人々はどうやって食べていたのだろう。

 これは、ビッグ5が傾く方向に向かっていくと同時にハワイの施政者たちが頭を悩ましていた問題である。その答は観光開発であった。ハワイの観光業は既に20世紀になる頃から始まっていたが、まだまだ金持ちしか行けない場所だった。山中速人によると、太平洋戦争の開始によって、アメリカ軍の兵士が戦線から戻って一時骨休めをする場所として発展することになり、これがハワイ観光の大衆化の始まりだという*16。1960年には30万人の訪問客であったが、1970年には175万人となる。1972年には、農業収入と軍関連収入を抜きトップとなる。概ね漸増傾向が続き、現在では年間1000万人がハワイを訪れる。

 1970年頃からプランテーションが閉じ始めるが、その跡地の一部で観光開発が行われ、ホテル、タイムシェア宿泊施設、別荘、プール、ゴルフコース、植物園、レストラン、バー等々、またプライベートビーチを備えた複合施設が数多く誕生したし、現在でもそれは続いている。

 一方、かつてサトウキビ・プランテーションに灌漑の水をとられて寂れていたタロイモ水田は、環境保護を合い言葉に耕作地が増えつつある。また商品作物としてのコーヒーの栽培が見直され、種子産業も急成長している。私が最初にハワイに行った1978年には野菜はほとんどカリフォルニアから送られてきていたが、現在ではトマトをはじめ多くの地元産野菜が出回るようになった。かつてのプランテーションの一部を農家が借りて行っているのだ。地産地消は世界的な動きでもある。

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コナ・コーヒーの収穫。2013年。Christopher Michel / CC BY

 

 今回調べてみて意外だったのは、牧場の健闘ぶりである。牧場はサトウキビ・プランテーションに隠れて見えにくかったハワイの産業である。老舗で最大はハワイ島のパーカー牧場(10万6000エーカー)、モロカイ島のモロカイ牧場(5万4000エーカー)、マウイ島のハレアカラ牧場(2万9000エーカー)、ウルパラクア牧場(1万1000エーカー)などがある。牛や馬、羊などを育てる牧場の開発は、19世紀初頭に遡り、カリフォルニアから呼び込んだスペイン系の牧童(パニオロ)が馬にまたがり、動物の世話をした。といっても、現在いわゆる牧場の産業的機能をフルに果たしている牧場はない。ただ、モロカイ牧場*17を除いては、一部産業機能を果たしつつ、かつての歴史的建物の保存を行いながら、子どもを含む家族に牧場体験をしてもらったりする、自然体験、自然保護を基調とした観光を行っている。自然保護団体と提携している牧場も、自然保護の活動資金を稼ぐ必要があるから、植物や動物観察や農業体験の指導をしたり、グリーンツーリズム的イベントを行ったりしているのである。

 ハワイでもっとも歴史があるパーカー牧場の初代所有者ジョン・P・パーカーの妻はカメハメハ1世の孫だった。6代目の相続人リチャード・スマートはミュージカルの俳優としてブロードウェイやパリで活躍した後帰郷し、牧場を会社組織とした。彼の没後、会社は利潤を病院・学校など4つの公益団体に与える公益信託となっている。

 先のIT長者のエリソンと似たような話がカウアイ島にもある。ウィルコックス家の所有となっていたグローヴ農場――農場、の名になっているがサトウキビ・プランテーションとして灌漑を最初に行うなど、業界のリーダー格だった――であるが、2000年にIT企業で成功しファンドを率いるジェフ・ケースが購入して話題となった。ケースはハワイ育ちで、その祖父はグローヴ農場会社で会計担当者として働いていたこともあり、ケースの父(弁護士)は信託の受託者の1人であったから、ウィルコックス家の数人との間で利益相反として法廷で争われた。この件は結局ケースに軍配が上がっている。ケースは、既に操業を停止したリフエ・プランテ―ションとコーロア・プランテーションも併せて購入し、土地はすべてで3万8000エーカーもある。

 地元の人たちは警戒したのだが、幸いなことには、エリソンの場合もケースの場合も地元民が困るような観光公害に相当する施設をいきなり建設するような開発を始めてはいない。両者ともに、公共を重んじた事業も含め、サステイナビリティや環境保護を謳っている点が特徴である。

 

パウアヒ姫の願いとカメハメハ・スクール

 さて、グレートマヘレにより多くの土地が白人のものになってしまったというのが一般に言われていることではあるが、土地の半分を占める公有地を除いて最大の地主は、カメハメハ・スクールという学校法人で、ハワイ全土の9%を所有する。19世紀の大地主ルース・ケエリコーラニ姫は子どもがいなかったので、亡くなるときその遺産35万3000エーカーをイトコのバーニス・パウアヒ姫に託した。パウアヒ姫の夫は第1ハワイ銀行創設者チャールズ・R・ビショップで、このカップルは『ファミリーツリー』のマットのご先祖様と被るところがあるが、この2人にもケエリコーラニ姫と同様子どもがいなかった。パウアヒ姫はもとからあった土地と併せ、48万6000エーカーを所有するところとなったが、亡くなるときに、この土地を原資としてハワイの子どもたちが学校教育を受けることができるようにと願った。夫のビショップは、この財産を公益信託とし、現在のカメハメハ・スクールの礎を築いた。

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バーニス・パウアヒ姫。1850年~1860年頃。
アメリカ人実業家チャールズ・ビショップと周囲の反対を押し切って結婚した。
Unknown author / Public domain

 

 カメハメハ・スクールのHPによれば、現在所有する土地は36万6000エーカー近く、またほかに110億ドルの資産があり、これをリースに回したり、さまざまに運用したりすることで得た利益で、幼稚園から高校まで6900人のハワイ系の生徒・児童に教育を行っている。小学校から高校まではオアフ島、マウイ島、ハワイ島にあり、幼稚園は全州各地30箇所にある。さらにアウトリーチ・プログラムの恩恵に6万人が浴している。高校卒業後の進学も奨学金をもらってできるようになっている。カメハメハ・スクールは、クリスチャンの信仰に則り、通常の教育プログラムに加えてハワイ語やハワイ文化の継承を行う教育がなされている。

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 ちなみに、カメハメハ・スクールは全米一のcharitable trustであり、その収入はハーヴァードとイェールを併せたより大きいという*18。かつてはハワイ人の血を引く者だけに入学が許されたが、現在ではその規程も外されている。しかし、ハワイ語やハワイの伝統文化がカリキュラムに入れられていることは変わらない。

 カメハメハ・スクールは、パウアヒ姫の偉大なる遺産であり、この遺産の享受が永続する見通しであることはすばらしいことだ。

 

補足

 今回土地の信託について調べてみたのは、これが一族で共有するというポリネシアによくある土地の共同所有という制度と重なるものがあると思ったからである。そして、マットの自らをハワイ人であると呼び覚まされた自覚と土地によって結ばれる子孫たちは、ポリネシアによくある、双系的な親族集団を思わせるものだった。

 サモア独立国では全土の4%足らずだが、自由売買がなされる土地(ほとんど宅地)がある。これを買うと次世代から先は、双系的に続く子孫のものとして登記されることが多い。宅地だからしれた広さしかないが、そこに2~3世代経ると大勢の共同所有者がいることになる。つまり、ここでも伝統的土地所有観が反映されているのだ。

 ニュージーランドでも、マオリに残された土地は決して広くないが、観光施設のある土地が信託となっていて、そこからの上がりを親族で分け合うという話も耳にした。

 つまり、信託制度が、ポリネシア的土地所有の理念と親和性をもつものであり、ポリネシア人の側からもこの制度を積極的に取り入れる理由があるのではないか、という疑問である。ただし残念なことに、ハワイの目立った家族信託は、宣教師や19世紀のハオレ実業家の子孫のもので、旧コノヒキの土地が信託になっているかどうか、を調べることはできなかった。ただ、宣教師やハオレ実業家はハワイ貴族の女性と結婚することもしばしばあったし、ハワイ人の家族的センチメントを共有することもあったのではなかろうか。すなわち、カマアイナがある意味で、ハワイ人の家族観を知らず知らずに身につけていたことは十分考えられる。もう少し調査を継続するつもりである。

 

*1:http://files.hawaii.gov/dbedt/economic/databook/2018-individual/06/060718.pdf

*2:Kaui Hart Hemmings (2007) The Descendants: A Novel. New York: Random House.

*3:ハワイ人の役なので、そんなのあり?と思ったのであるが、もともとハワイ人は混血が多いので、友人のハワイ人は彼女のポルトガル系ハワイ人のおじさんにそっくりだ、といった。事実役柄では、16分の1のハワイ人である。

*4:ハワイ語で白人をさすことば。

*5:ハワイ語や日本語などの移民の言語をとりまぜたローカルの英語。

*6:認知症者とその家族が、家の売却、空き家問題、施設入所者の入居金+経費の支払い問題などに対処する方策として想定されている。

*7:‘Deconstucting The Descendants: How George Clooney Ennobled Old Hawaiian Trusts and Made the Rule Against Perpetuities Sexy’ Real Property, Trust and Estate Law Journal 48(291), Fall 2013.

*8:ハワイ語で、現地人を指す語であるが、人種にかかわらず、現地生まれ、現地育ちすべてを指す。ただ文脈では、主としてハワイに宣教師として来た人々の子孫。

*9:ここらあたり、いくつかのサイトで話は違っており、ロス教授の話も詳細は異なる。

*10:3名のハオレはすべて宣教師の家系に属すカマアイナである。

*11:ネット上(https://dlnr.hawaii.gov/shpd/files/2015/05/HI_Kauai_RiceBeachHouse.pdf)には、この土地にある「メアリ・S・ライスのビーチハウス」の州史跡登録の申請書がアップされている。最初のオーナーのW.H.ライスの母のメアリ(宣教師の1人)が晩年を過ごした場所である。ジャックも利用した。申請書にはいくつもの写真が掲載されている。

*12:The Hawaiian Kingdom vol.1, University of Hawaii Press, 1938.

*13:山本真鳥(2012)「オセアニア世界の植民地化と土地制度」小谷・山本・藤田共著『土地と人間』有志舎、pp.115-213.

*14:決められた年限の労働が義務づけられるのみならず、雇用先の変更が認められていなかった。

*15:ジョン・オカムラ「合衆国併合からハワイ州誕生へ」山本・山田編『ハワイを知るための60章』明石書店、2013年。

*16:山中速人(1992)『イメージの<楽園>――観光ハワイの文化史』筑摩書房。

*17:クック一族のものであったが、もともと牧場をやっていた期間は短く、パイナップル栽培の会社に土地を貸したり、リゾート開発に手を染めたりした後、投資会社に買収されてしまい、さらに2.6億円で売りに出ている。住民は大変困惑している状況である。

*18:1990年代半ばに、その信託の運営において不正が行われているという告発がおき、騒然となった。この顛末はSamuel P. King & Randall W. Roth (2006) Broken Trust, University of Hawii Pressに詳しい。

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