オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第7回 航海術の復興

 

 ディズニー・アニメ映画『モアナ』を見た人々は、ポリネシア人が海に親しみ、航海を苦もなく行っていた様に印象づけられたかもしれない。太平洋のど真ん中*1で暮らしていた人々は、当然のように海とともに生きてきた。ポリネシア人がどのようにして現在のポリネシア地域にやってきたか、どのようにして島々に住み着くようになったか、に関わる諸説はかつてよりあった。一番話題性が高かったのは、コンティキ号による実験航海である。

 

ポリネシア人はどこから来たか?

 ポリネシア人の南米起源説を唱えたノルウェー人考古学者のトール・ヘイエルダールは、クルーを募り、バルサ材などを用いた大きなイカダを建造してペルーを出航し、ツアモツ諸島の環礁に到達した。スコールをシャワー代わりにしたり、フライパンの上にトビウオが飛んできて魚のフライができたりする、『コンティキ号漂流記』(1951年、月曜書房)に描かれた冒険物語に心踊らせたのは私だけではあるまい。

 しかし現在では、考古学・言語学などの先史学により、ポリネシア人の南米起源説はほとんど否定されている。ポリネシア人の祖先オーストロネシア語族は、台湾あたりを起源として、紀元前2000年頃に移動を始め、東南アジアの島嶼部や、西はマダガスカル島にまで到達しているが、彼らの一部がインドネシアから島伝いに東へ東へと進み、ニューギニア島の沿岸部や周囲の小島にコミュニティを残しつつ、メラネシアを通過してサモア諸島、トンガ諸島あたりに到達したのが紀元前1000年頃。さらに紀元頃には東に進み、マルケーサス諸島、やがてソシエテ諸島に住み着き、そこから四方八方に拡散したことが分かっている。彼らはメラネシアではラピタ式土器という赤土の粘土で焼いた土器を持っていたが、マルケーサス諸島あたりでその形跡は消えてしまっている。サモア、トンガでも発掘すると出てくるものの、生活文化の中で土器が姿を消して久しい。なぜ姿を消したかは、おそらくポリネシアには焼きもの向きの粘土がなかったからだろうと言われている。

 太平洋に点在する小島群には無人島ももちろんあるものの、実に多くの島々に人々は住み着いている。嵐などに出会って船が難破した結果、人々が次第に拡散することになった、という偶然航海説が有力だった時期もあるが、コンピュータでシミュレーションをしてみると、難破だけではとてもこれだけ人々が拡散しないと分かった。ポリネシア人は計画的に航海を行って、新天地を見つける船旅にでかけたのである。おそらくそのときに、ココヤシやタロイモなどの定番の植物、そして犬とニワトリやブタを乗せて、家族で新天地へと旅だった。初回に書いた神話的存在であるクペは、他の首長との間の争いに嫌気がさして、妻と子どもたちを伴ってライアテア島から航海に出てニュージーランドを発見するのであるが、そのようにしてポリネシアの島々の発見が成し遂げられたというのが現在考古学者や人類学者が考えていることである。

 

アウトリガー・カヌー

 アウトリガーというのは、日本語では舷外浮材と呼ばれるもので、船から横向きの腕木を出し、つきだした部分につける浮きである。東南アジアのオーストロネシア語族の間では船体の両側にこれをつけるダブル・アウトリガーというものがしばしば見られるが、オセアニアでは圧倒的に片側にだけつけるシングル・アウトリガーが多い。素人目にはダブル・アウトリガーの方が安定的だろうと思えるが、実際には海が荒れたときなど、むしろ余分な力が働いて壊れやすい。シングル・アウトリガーは揺れたり傾いたりはあるが、船としての強度は高い。片側についただけのアウトリガーは不安定に見えるものの、船がアウトリガーの方に傾くと、アウトリガーが水の中に沈み浮力で傾きを戻す力が働く。アウトリガーの反対側に傾くと、水から出たアウトリガーは、重みで水面に引きもどされる。かくして、アウトリガーによって船のバランスが保たれるのである。

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カヌーに乗り、銛で魚を捕らえる。1921~23年、ガンビエ諸島マンガレヴァ島にて。大英博物館蔵。

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魚獲りのカヌー。1978年サモア、マノノ島にて、山本泰撮影。

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魚獲りから帰還。1978年サモア、マノノ島にて、山本泰撮影。

 櫂でこぐだけで、魚釣りに使う小さなものから、帆を張って外洋に出るものまである。大きなものになると、アウトリガー部分がさらに大きくなり、そこに乗船できるようなスペースが作られているもの、もっと大きくなってダブルカヌー(二槽船)になっているものもある。太平洋の探検を行った17世紀、18世紀のヨーロッパ人は、きわめて大きなダブルカヌーに身分の高い首長層と家来たちが乗船している様を報告している。以下はキャプテン・クックに帯同した画家のホッジスが描いたタヒチのダブルカヌーである。

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タヒチの戦闘用ダブルカヌー。1827年、石版画。王立グリニッジ博物館蔵。

  これらのカヌーは、星の動きや遠く水平線上に見える雲、海の色、そして潮の流れなどを観察する航海技術により、外洋を航海することも可能であったといわれる。1960年代以降になると、そのような航海技術の伝承者を見つけることで、オセアニアの航海術の研究は進んだ*2

 しかし、その性能でヨーロッパ人を驚かせた大きな外洋航海のカヌーは、ヨーロッパ人との接触が増え、様々なヨーロッパの工業製品が導入された頃、次第に廃れる方向であった。航海術もカヌーが減るにしたがって、忘れ去られていった。これは単にヨーロッパの文化に目がくらんで、自分たちの技術が顧みられなくなったというよりは、それぞれの諸島の自立性が高まり、その結果として、長距離航海が必要とされなくなったと見ることもできる。船としては大変優秀で、その性能は帆船に勝るものがあるとキャプテン・クックも感嘆したほどであったことを考えると、残念なことである。

 一方で、ミクロネシアでは、長距離航海は近年まで続いていた。ヤップ島は東のカロリン諸島の環礁群を従えた一大帝国を築いていた。ヤップ本島を頂点とする幾層もの身分制に従って、それぞれの島から上位の島へと貢物が送られていたし、人々はその朝貢貿易を基本的には小さなカヌーを用いて、長く続けていた。1974年にヤップ島を訪れた際も、ヤップ島の男性は色とりどりのキャリコ布のふんどし、女性は腰蓑が伝統的服装であり、その頃はまだそのような姿を多く見かけたが、一方で小さなアウトリガー・カヌーでやってきた離島の人々は、バナナの葉でつくる現地の織物の腰布をまとった姿で歩いていた。

 

沖縄海洋博とチェチェメニ号

 1971年に開催された大阪万博のあと、沖縄の本土復帰を記念して、1975年7月~76年1月まで、沖縄本島の本部町にて、国際海洋博覧会が開催された。その行事の一環として、太平洋諸社会の慣習や文化の展示を行うために、多くの人類学者の卵たちが太平洋諸国に民族資料集めのために派遣された。このプロジェクトの一環で、ヤップ島傘下のサタワル島の人々にカヌーを作ってもらったばかりでなく、航海士ルイス・ルッパン以下6名のミクロネシア人が乗り組んでサタワル島から沖縄まで3000キロもの距離をチェチェメニ号と名付けたカヌーにより航海した。同時期に、海洋博にて、様々な民族文化標本と共にタヒチのダブルカヌー、パプアニューギニアのヒリ交易船*3、トロブリアンドのクラ*4のカヌー、といったオセアニアのカヌー類が展示された。

Micronesian navigational chart
ミクロネシアで使われていた地図。木製、タカラガイも使われている。by Cullen328 [CC BY-SA 3.0]

 

 現在本部町にある海洋博公園は、美ら海(ちゅらうみ)水族館が大変人気で知られている。同じ公園内には海洋文化館という博物館も設置され、その中で海洋博覧会のレガシーであるオセアニア・沖縄の文化財展示が行われている。最近展示のリニューアルが行われて、オセアニア各地の文化の特色を分かりやすく作り直した点で大変よくできた博物館である。沖縄訪問の方々には美ら海水族館ばかりでなく、こちらにも是非関心を向けていただければと思う。

 ただしチェチェメニ号だけは、大阪吹田市にある国立民族学博物館に展示されている。全長10メートル足らずの、おそらくさほど大きいとは思えないカヌーであり、これで沖縄までやってきた、と知ると人は驚くはずだ。クラの船にしても、あれだけの外洋を航海しながら、決して大きな船ではない。

 

ホークーレア号

 さて、世界中で先住民運動が盛んとなるきっかけを作ったのは、かつてインディアンと呼ばれていたネイティヴ・アメリカンの権利回復運動である。よく知られているのは、サンフランシスコ湾内のアルカトラス島――監獄となっていた島で、かつてアル・カポネもここに収監されていた――である。ここはもともとネイティヴ・アメリカンの聖地であったため、ここを取り戻す運動が起こり、ネイティヴ・アメリカンの活動家たちが占拠した事件は先住民研究の中で余りに有名である。

 この流れの中でハワイにも先住民運動が始まった。無人島のカホーラヴェ島は、第二次大戦後から軍の演習場として射撃・爆撃訓練に用いられていた。しかしそこで、人骨が大量に発見され、先住民の墓場であると目されるようになったのである。先住民運動家たちは訓練の中止を申し入れたばかりか、ここに不法に立ち入る者もいて紛争は激化した*5

 同時期にそのような「武闘派」でない、ソフトな運動もまた盛んとなっている。差別の中で失われつつあったハワイ文化の復興を志す人々は多かった。これはハワイアン・ルネッサンスと呼ばれる文化復興運動である。フラのグループが多く作られ、チャント(詠唱)に合わせて踊るフラ・カヒコ(古典フラ)が再興された。またハワイ大学ではハワイアン・スタディーズ学部が設立され、ハワイ人の歴史研究に陽が当たるようになった。

 そしてハワイアン・ルネッサンスの中で、外洋を航海するカヌーの再建計画が起きる。中心的活動を担ったのは、ハーブ・カネ、ベン・フィニー、チャールズ・トミー・ホームズの3名で、彼らはポリネシア航海術協会(Polynesian Voyaging Society)を設立する。彼らは先住民の技術だけでポリネシア域内の遠距離航海が可能であることを証明したいと考えていた。ハーブ・カネは、中国系ハワイ人で、父の仕事の関係で合衆国本土に生まれ、幼少期は本土とハワイを行き来する生活を送り、やがてシカゴの美術学校を卒業した。デザイナー兼イラストレーターとして成功した後、ハワイ人としてオセアニアに生きる人間の誇りをとりもどすために、この計画を考える。博物館や図書館で資料を読みあさった後に、現在は存在しないダブルカヌーを彼自身が設計し、再興しようと考えた。

 白人ではあるが、この計画の後ろ盾となり、ハワイ人たちの活動を支えたベン・フィニーはサーフィン*6の研究で著名となった人類学者である。ハーバード大学人類学部で博士号をとったフィニーはハワイ大学に職を得、伝統的航海術で遠距離航海ができることを示し、さらに彼らが計画的に移住可能であったことを証明したい、そのためには実験航海が必要であると考えていた。

 後にポリネシア航海術協会の中心人物となるナイノア・トンプソンは、当時プナホウ・スクールを卒業し、ハワイでハワイ人の置かれた地位に疑問をもつ若者であり、20代前半からこの活動に身を投じることとなった。

 1975年に念願のダブルカヌーは完成し、ホークーレア号と名付けられた。全長19メートル弱、横幅5メートル弱、2本マストで、12~16名のクルーで航海する。ホークーレアとはハワイの航海者たちが目印とした、牡牛座のひときわ明るく輝くアウクトゥルス星のことである。ハワイ周辺での練習航海を行った後、1976年にタヒチに向けて航海することとなった。

 実は、遠洋航海のダブルカヌーがハワイから姿を消してから既に200年が経過し、伝統的航海術は様々な記録に断片的に見いだすことはできるものの、それを用いて航海を行った経験者は皆無であった。彼らは、サタワル島の有名航海者のうちマウ・ピアイルグをこの実験航海に招待し、指導を仰ぐこととなった。数々の難関を克服してこの実験航海は見事に成功し、世界をあっといわせることになるが、航海中船上ではクルーの仲間割れや口論などが頻発し、ピアイルグは怒ってタヒチ―ホノルルの帰還に関わることを拒否して帰ってしまった。行きはすべて伝統的航海術で全うしたが、帰りはそんなわけで機器を用いながらの帰還となったのである。

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タヒチからホノルルに帰還したホークーレア号。1976年、(C)Phil Uhl

 その後、1978年に再度タヒチ行きを志したが、マウイ沖で暴風雨に遭い、今は航海士となったナイノア・トンプソンは親友のクルーをなくすという不幸な事件に直面してしまう。猛省したトンプソンはピアイルグの下にでかけ、彼に許しを請い、再び来布を依頼し、彼の指導で航海術を学びなおした。こうしてピアイルグに学んだことに自らの体験を加えてナイノア流の航海術を完成することとなった。ナイノア・トンプソンはこの後のホークーレア号の航海では一貫してリーダーシップをとる。

 ホークーレア号の活動は、単にハワイ人の伝統的航海術の実践、すなわち先祖の伝統知を学ぶというだけでなく、ポリネシア全体の航海術復興運動に大きく関わるようになる。ハワイ人の間からもクルーをリクルートしているが、各国から研修生を受け入れて、各地の航海術の復興、伝統文化の振興に大きく貢献している。またオセアニア各地を訪問して、ポリネシア人自身が海洋民であることを覚醒し自信をとりもどすことにも大きな貢献を果たしている。

 さらに主として海洋汚染に関わる環境運動や平和を目指す国際交流にも一役買い、そのために世界各地を訪れた経験をもつ。その意味では、ポリネシア人の足跡を考える実験航海から、ポリネシア各地を訪れてポリネシア人の誇りと叡智を取り戻す役割、そして世界平和をプロモーションする立場に変化していったということができるかもしれない。

 ポリネシア航海術協会制作のビデオを是非ご覧いただきたい*7

www.youtube.com

 後藤明は2007年のホークーレア号日本訪問に際して、訪問都市の行政との中継ぎを行ったり、イベントの企画に関わったりした経験を書いている*8が、その活動がいかに広範かを知ることができる。

 

ポリネシア各地のカヌー

 さて、ホークーレア号はその活動の一環として、1992年の太平洋芸術祭を訪問している。この年は第6回目の開催で、クック諸島の主島ラロトンガで行われたのであるが、テーマは「遠洋航海文化遺産」で、まことにホークーレア号にふさわしいものであった。クック諸島の住民たちも航海術に関しては大きな関心を寄せており、このテーマに向かって、芸術祭でヴァカ・ページェント(カヌー祭)の開催が検討されることとなった。クック諸島でもページェントをにらみ、遠洋航海に耐えるヴァカ(カヌー)の建造が進んだ。このためには大変な資金が必要で、またカヌー建造の知識や技術も必要である。このあたりは、人類学者の棚橋訓が詳述しており、ニュージーランドに移民した兄弟姉妹に送金してもらったり、富くじを売ったりしながら、大変な犠牲を払ってカヌーを大会に間に合わせるさまがその論文に描かれている*9。またカヌー本体について、古い民族学者の記録などを探して図面を見つけるまでの苦労も大変なものだ。全長は、ホークーレア号より大分長くて28メートル、200人乗船が可能なものであったようだ。

 ヴァカ・ページェントには、タヒチ、マーシャル諸島、ハワイ、ニュージーランド、クック諸島からの参加があり、ラロトンガ島の東側のラグーンに停泊し、クック諸島政府の要人や首長らに加えてそれぞれのカヌーのクルーが参加し、厳かな儀式が行われたという*10。ハワイから来たというのはホークーレア号であったに違いない。

 伝統的ダブルカヌーの建造の試みは、ホークーレア号に遅れること10年余りで、各地で活性化されていく。クック諸島元首相のトム・デイヴィスは大変熱心で、クック諸島航海術協会の下でテアウトンガ号を1994年に完成した。1996年に西サモア(現サモア独立国)で開催された太平洋芸術祭めざしてやってきたクック諸島のカヌーは、その場に居合わせた私がトム・デイヴィスの姿を目撃しているからおそらくこれであろう。また女性首長が乗船していて、クルーの背におぶさってカヌーを下りた。壮大な歓迎の儀式が行われダンスが演じられた。

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ニュージーランド・マオリの戦闘用カヌー。アウトリガーがないという特徴がある。1969年、アレキサンダー・スポリング画。大英博物館蔵。

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第7回太平洋芸術祭に際し、アピア湾内にて、クック諸島のテアウオトンガ号と出迎えのサモアのファウタシ。山本真鳥撮影。

 そのとき、サモア側では遠洋航海のカヌーをねぎらうかのように、沿岸警備艇と2隻のファウタシ(戦闘用カヌー)が出迎え、湾内に誘導した。ファウタシというのは、40人を越すクルーが1本ずつのオールを使って漕ぎ、漕ぎ方の指揮をとるキャプテンとドラム打ちが乗船している長細いボートである。アウトリガーはついていない。かつては戦闘用に用いられたが、現在そのような用途はない。ボート競技に使うエイトをもっと長くしたようなものだが、クルーは2名が横に並んで座る。40人以上のクルーが心をひとつに合わせて漕ぐ必要がある。サモア各地の村がファウタシを所有していて、若者たちが漕ぎ手となる。サモア独立国では6月の独立記念祭と9月のテウイラ観光フェスティバルにレースが行われ、村同士競い合うのだ*11。ファウタシはかつてトンガなどにも遠征したことがあるということだが、とてつもないスピードが出る。ポンポン蒸気で2時間(現在は遊覧船で1時間だが)かかる距離を30分もかからずに着いてしまうという。写真の手前がファウタシで奥はクック諸島から来たダブルカヌーである。

 ファウタシは専門の船大工がいてまだ作られているが、ダブルカヌーはそうはいかない。1隻建造するにも多大な資金が必要だし、それなりに過去の技術を再現する努力が必要となる。またホークーレア号は、エンジンなど持たないが、クック諸島のカヌーはエンジンの装備付きで、外洋に出たらエンジンを使うと聞いた。装備や航海術はともかくとして、船の材料などは、全く過去の技術のまま、というわけにはいかない。ホークーレア号にしても、ビデオを見ると、太陽光発電の設備を備えているのがわかる。ニュージーランドには、ポリネシアのダブルカヌーを注文に応じて製作してくれるところがある。

 ちなみに、サモアでも航海術協会が存在していて、ガウアロファ号というカヌーを所有している。ドイツに設立されているオケアノス海洋財団という財団がある。ここは「太平洋諸島の人々の伝統的かつ持続可能な(伝統的航海術による)交通運輸能力を強化することで、彼らの自主独立、文化復興、海洋管理能力を高める手助けをすることを目的とする」*12財団である。ニュージーランドでポリネシア式の外洋航海カヌーの製作を行っているのはこの財団であるらしい。化石燃料を使わない(太陽光発電やココナツオイル燃料はOK)で航海する大小2種類のカヌーとカタマランを製作している。ガウアロファ号は2009年に竣工した大きいタイプで全長22メートルある。7隻の大型カヌーでニュージーランドを出帆してオセアニア各諸島を巡り、地域のクルーを育成しながらサンフランシスコに到達する、テマナオテモアナ(太平洋の精神)というキャンペーン航海を行った後、2014年にガウアロファ号はサモア航海術協会に託された。ガウアロファ号は現在もっぱら、サモア各地を訪ねて、海洋環境教育やクルーの訓練などを行っているようである。ちなみに環境教育について、日本のSATO YAMA UMIプロジェクトが助成を行っている。

 

むすび

 今回のテーマについては、既知のこともあったが、調べていくうちに全く知らなかったオケアノス財団のことも知ることができて、大変な収穫であった。ちなみにオケアノス財団のページには多くの現地スタッフが登場するのであるが、ヴァヌアツやミクロネシアの人々が多いのに驚いた。多人数が乗船可能なダブルカヌーの再構築は主にポリネシア主導の文化復興運動であったが、現在オセアニア全体の財産として認識され、各諸島がネットワークで結ばれて協力し合っていることは実に喜ばしいことである。ちなみに外洋航海の大型カヌーは、ニュージーランドに3隻、フィジー、サモア、クック諸島、タヒチ、ハワイに各1隻。島嶼間航海の小型カヌーはパラオ、ヤップ、ポーンペイ、マーシャル、ヴァヌアツに各1隻ずつとなっている。カタマランはタヒチに1隻のみ。

 持続可能な開発が提唱され、伝統的知識の見直しや、現地社会の人間開発が課題となる中、このようなプロジェクトはまさに時宜にかなっているといえるのであろうし、学ぶべきところは多い。

 

*1:もちろん、海辺近くに暮らしていた人々のことを述べている。とりわけ、ポリネシアにあっては海辺近くに集落が位置するのが普通であったが、メラネシア地域の山中には海と無縁の生活を送る人々もいた。

*2:例えば、David Lewis (1972) We, the Navigators, The Ancient Art of Land finding in the Pacific. Honolulu: University of Hawai‘i Press.

*3:パプアニューギニアの首都ポートモレスビーの海岸部に杭上家屋群が突き出たハヌアバダ村あたりのモツ族の慣習で、船を仕立てて北西の方角に土器のつぼや貝の腕輪など携えて海岸線を旅し、サゴデンプンと交換するもの。現在は行われていないが、記念のフェスティバルが行われている。

*4:マリノフスキーのモノグラフ『西太平洋の遠洋航海者』で知られるようになった交換システム。第3回参照。

*5:現在は、演習は行われていない。

*6:ハワイの王族の遊びであったサーフィンは、水泳のオリンピック・メダリストであるハワイ出身のデューク・カハナモクの活動によって、世界に広く知られるようになった。彼を記念する銅像がサーフボードを背にしてワイキキの浜辺に立っている。

*7:ちなみにこの中に用いられているイラストはハーブ・カネの作品である。

*8:後藤明(2013)「文化遺産を証明する旅―ホクレア号プロジェクト」「ホクレア号日本航海」山本真鳥・山田亨編『ハワイを知るための60章』東京:明石書店、191-198頁。

*9:棚橋訓(1997)「MIRAB 社会における文化の在り処―ポリネシア・クック諸島の文化政策と伝統回帰運動」『民族学研究』61(4): 567-587.

*10:Jeffrey Sissons (1999) Nation and Destination: Creating Cook Islands Identity. Institute of Pacific Studies and the University of the South Pacific Centre in the Cook Islands.

*11:アメリカ領サモアでも、フラッグデイ(4月17日)にレースが行われている。

*12:オケアノス財団HP。

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