オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第3回 オセアニアのお金の話

 さて、第2回の続編として、もう少々オセアニア全体の伝統的貨幣もどきの話と、現在の島嶼国家の発行する通貨の話をしてみたい。

 

クラ交換(交易)

 おそらくは「クラ交易」の方が良く知られる名かもしれないが、私は「クラ交換」といった方が学術的には正しいと思っている。交易というのは英語ではtradeであって、貿易や取引という意味であるが、クラはさまざまな慣習に取り巻かれている財のやりとりで、単にモノが欲しいからお金ないしはモノの対価の支払いを行って得るという交易(取引)とは少々違うのである。

 クラは、機能主義人類学の始祖マリノフスキーが1910年代に行ったトロブリアンド諸島*1の調査による民族誌『西太平洋の遠洋航海者』(原著1922)で広く知られるようになった慣習である。ニューギニア島は西を向いた極楽鳥に喩えられるが、その尾の近くにある諸島群はマッシム諸島と呼ばれている。現在の独立国パプアニューギニアのミルン湾州である。この諸島はさらにいくつもの諸島からなり、それぞれ諸島毎に少しずつ言語も社会構造も異なる。この島々の間では円環状のネットワークが存在しており、長期的には互いに時計回りに白い貝の腕輪を、反時計回りに赤いウミギクの首飾りを隣の島に与えることをしている。この慣習がクラである。

 具体的には、マッシム諸島の北西に位置するトロブリアンド諸島の人は、南にあるアンフレット諸島やドブーに首飾りが届いたらしいと風の便りに聞くと、華麗な装飾を施した複数の船を仕立てて乗組員を募り、危険を冒して航海に出かける。船団の中には帰還できない船も出る。現地でもてなしを受け、クラのパートナーから首飾りをもらう。無事帰還して家族と涙の対面をしてお土産を披露したあと、それは籠に入れてしまっておくだけだ。持っていることは自慢だが、いつもつけて見せびらかしたりするわけではない*2

 東側にあるキタヴァ島の人々がこれを聞きつけて同じようにやってきたら、もてなしてその首飾りをあげなくてはならない。逆にキタヴァ島まで腕輪が来たという噂があると、船を仕立ててキタヴァ島まで行って腕輪をもらってきてまた同様のことが起きる。やりとりはすべて個人的パートナー間で行われる。有力者はそれなりに相手社会の有力者とパートナー関係を結ぶ。またパートナーが亡くなるとその兄弟などの係累が関係を引き継ぐ。この慣習はいったい何のために存在するのだろうか、という議論がこれまで盛んに行われてきた。経済的にはただ首飾りと腕輪を逆回りに回しているだけで、何のメリットもなさそうなのに、命の危険を冒してまでどうして人々はクラに行くのだろうか。

 その議論にここで深く立ち入ることは無理だが、簡単にまとめれば、貴重な財を入手して名声を希求するためという見解、またそうやって近隣諸島との友好平和への道を探すためという見解、それに加えて、クラは口実で実際にはクラと一緒に持ち込んで交換する特産品交易(こちらはクラとは厳密に区別されている)が目的といった見解、に集約できるだろうか。興味のある方は、文化人類学の教科書などを参照していただきたい。私も何度か書いたことがある*3

 ただ、「オセアニアの今」を考える上で興味深いのは、クラは衰えたり消滅したりすることなく、現在も盛んに行われているということである。1978年にケンブリッジ大学で、クラに関する大きなシンポジウムが開催され、人類学の泰斗エドマンド・リーチやタンバイア、クリス・グレゴリーたちの他に、マッシム諸島海域の別の島のフィールド調査をしている若い学者たちや当時トロブリアンド諸島の調査をしていたアネット・ワイナー、ジェリー・リーチ等も参加したのであるが、当時もクラは衰えていなかった*4。マリノフスキーのトロブリアンド調査一辺倒だったクラ研究も全域的な情報を突き合わせ、社会によりクラの慣習は多様性があること、またクラの財は諸島間で取り交わされる局面に議論が集中していたが、あまり注目されてこなかった諸島内でのやりとりと併せて見ていく必要があること、その意味ではクラ研究は、人類学者が議論を戦わせ、これからも極めていく恰好のモデルであり、このクラ・コンファレンスはまだ中間地点であること、などが確認されたのである。そして、この報告書に掲載された写真を見ると、マリノフスキーの時代と比べ、ビーズ等の装飾が格段に増えて派手になっていることもわかる。腕輪よりも付けられた装飾の方がはるかに大きい。

 さらに2000年を越えるころになると、パプアニューギニア大学を卒業した作家であり、国際ビジネスマンであるトロブリアンド人のJohn Kasaipwalovaがクラの財を組み合わせた新しいスタイルの宝物を作ったり、航空機や発動機付きのボートを利用してクラの交渉を実施している。キリウィナ島に住む白人が現金に任せてクラに参入することも生じている。しかし、クラに人々がかける情熱は消えていないようだし、クラの船は健在だ*5

 ちょっとした脱線をお許しいただきたい。1970年代にトロブリアンド諸島で調査を行ったジェリー・リーチは、トロブリアンド社会のクリケットをテーマに映像人類学の作品を制作している(Trobriand Cricketの名でyoutubeにて視聴可)。トロブリアンド流クリケットは村同士の対抗戦で行われ、選手たちはお祭りの時のように葉っぱの褌をまとい、ペインティングで化粧をする。試合中に点が入ると短いダンスが行われる。村同士の戦いがクリケットに置き代わったというのがリーチの解釈だ。イギリスからオーストラリア経由で伝わったクリケットを全くトロブリアンドの文脈に置き直している点が実におもしろい。同じようにサモアにもクリケットが存在している。ゴムの樹液をバナナの葉の上に流して長く平べったいヒモを作り、それをくるくる巻いてボールを作る。村の高位首長に伴われて、バスをチャーターして他村を公式訪問し、儀礼を行ってから試合、終了後は儀礼の後にお土産をもらって、またバスに乗って合唱しながら意気揚々と帰村するのである。全国大会もある。

 

オセアニアの交換財、または伝統的貨幣

 さて本題に戻るが、このクラの財、首飾りと腕輪のような人の手から手へと渡されて行く財は、オセアニアには結構多い。前回でとりあげたサモアのファイン・マットはその好例であるが、南のトンガ諸島では、樹皮布がしばしば贈与に用いられる。サモアにも樹皮布は存在していたが、西欧人との接触以来、木綿地が衣類として入ってきて、樹皮布はあまり用いられなくなった。トンガでは特産品として樹皮布が大変重要である。今では機械化が進んでいるので、かつてほどではないが、1980年代にトンガを訪問した時は、朝まだ暗いうちから、カーンカーンという木を打ち付けるような規則正しい音がして目が覚めたものである。後にそれが、女性が樹皮をたたき延ばしている音だと知った。「砧(きぬた)打つ」音だったのだ。そうやって1週間の間に何枚も樹皮をたたき伸ばした素材を作り、土曜日に素材を持ち寄って貼り合わせ、染色して大きな樹皮布を完成する。現在ではほとんど衣類として用いることはないが、これが一種の財として、結婚式や葬式等の贈り物となる。海外のトンガ人の間でも、サモアのファイン・マットのように親族間の贈り物として用いられている。サモアのファイン・マットよりも換金性が高く、トンガ国内でも移民先のオークランドでも、樹皮布をカタにお金を貸してくれる質屋があるし、質流れ品を売ることもしている。

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2012年、たたきのばした樹皮を貼り合わせて染色する作業を行うトンガの女性。

 となりのフィジーでは、マッコウクジラの歯をもつことが地位のシンボルでもあり、儀礼の場面で贈る贈り物にもなっているが、サモアやトンガを越えて東側のポリネシアにはあまりこうした贈与財は少なくとも現在は存在しないようだ。

 しかしこの3国の西側のメラネシアには、人の手から手へと渡される財がある。タカラガイは中国では3000年以上前のものが出土しており、世界各地でお金として用いられていたという。しかしいくら何でも、ものの対価として渡す以上は、何らかの希少性がないと意味がない。そこらに落ちているものを渡して、何かくれといっても、持ち主は同意しない。サモアの海岸でもタカラガイはいっぱいとれるが、そんなものは貴重財にはならない。せいぜい首飾りとして用いられる程度である。メラネシアでタカラガイが使用されるのは貝などとれない山奥、もしくは海岸に近い場合には特別な加工品である。

 今から60年以上前だが、レオポルド・ポスピシルがニューギニア島の西側のインドネシア領で調査したのはカパウクという名の集団であった。カパウク人は、大変原始的な生産様式の焼畑耕作民であったが、異なる色・サイズのタカラガイを用いた貨幣制度をもっていて、土地やブタの売買も、土地の貸借料も労賃も、タカラガイのお金で決済可能であると報告している。ほとんどの物は売買可能なのだそうだ。

 2000年代にパプアニューギニアのニューブリテン島トーライ人のタブという伝統貨幣の調査をした深田淳太郎によれば、タブというのは、タカラガイよりもっと小さな巻き貝であるが、単体も、植物の茎に通した棒状の形も、それをぐるぐる巻いて輪にしたものもある。ビッグマンの葬式には必ずその人が集めて作った直径1.5メートルほどの輪が出て、最後にそれをほぐして会葬者に分配されるとのことである。現在パプアニューギニアの法定通貨である紙幣と硬貨の他に州政府はこれを補助貨幣として法律上も使えるものとし、税金や授業料などをこれで払うことができるようにしたという。これは伝統文化保護、アイデンティティ保持といった現代的テーマに即した法律なのだろう。各地でそのような動きが存在している。

 1985年にニューギニア高地のメンディという町に行ったときには、たまたま賠償の儀礼に遭遇した。それはバスに乗っていた老人がバスから転がり落ちて亡くなったという事件に起因するらしい。老人の遺族代表である部族の面々は数十人いただろうか。中には戦いの衣装に身を固め、顔や体をターメリックで黄色に塗った男たちが、それぞれに槍を携え、演説をする仲間の合の手に気勢を上げていた。かたや、余りきれいではなかったが半ズボンにシャツなどの服装の集団(5~6人いただろうか)は目立たずそこにいたが、やがて遺族集団の演説の終了を合図とするように、赤く塗った真珠母貝(首に提げられるようにヒモがついている)を震える手で差し出して渡したとたん、蜘蛛の子を散らすように走り去った。現代的集団はバスの運転手の組合だったらしい。

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1985年、パプアニューギニア高地メンディにて。気勢を上げる老人の親族たち。

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同じく、貝貨を差し出すバス運転手たち。

 ミクロネシアも西側の島々に交換財が今も残っている。ヤップ島には有名な石貨がある。南隣のパラオ諸島の最北端にある無人島に竹のイカダで行き、石を切り出し、直径50センチ位のドーナッツ型に整形して持ち帰っていた。殺人、傷害、姦通などの事件の賠償として使用し、結婚の際には女性方から男性方へ贈る財となる。身分の高い家には周囲に石貨がおいてある。また石貨が並べてある広場もある。どの石貨がだれのものかは皆知っているので、盗んでも意味がないらしい。だからそのあたりにおいてあっても大丈夫なのだ。

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1974年、ヤップ島の家の軒先。石貨が並んでいる。

 パラオでは、ウドウドというカラフルなガラス質のビーズが貴重財である。由来はよくわかっていないが外来のものであることは明らかだ。やはり紛争解決などにも用いられるが、この社会では結婚に際しての用いられ方が強調されている。夫方居住婚の母系社会であり、夫方に嫁入りする女性を通じて貴重財を入手した実家の兄弟は、これを妻となる人の実家に贈って結婚することができる。また、女性は婚家先の水田でタロイモ農耕に従事するが、頑張った見返りとしてウドウドをもらい兄弟に渡す。だから兄弟は姉妹に頭があがらない。ウドウドは夫方から妻方へと順繰りに渡されていくことになる。現在もパラオの身分の高い女性はしばしばこのビーズをネックレスのように首に着けている。ウドウドを見て、その人の身分の高さを知るのである。

 

お金って何だろう?

 これらの貴重財は、現代の法定通貨に混じって流通している。人々の手から手へと渡っていくものであることは間違いない。しかし多くの場合、慣習に従って特定のコンテクストで贈られることがほとんどであるし、近代貨幣が入ってくる以前も取引に利用されるよりはコンテクストに合わせた贈与品として贈られるものであった(もっともカパウク人の場合は例外であるが)。最初に接触した人々は必ずしも人類学者ではないが、多くの場合、現地の貨幣であると記述してきた。サモアのファイン・マットも例外ではない。貨幣であるとの認識は、貨幣が必ずしも我々が普段使っているようなお札とコインでなくてもいい、ということである。

 実際に何かの支払いにしばしば用いられるものとして、タバコやお米、干し肉、宝石や金の塊などもあった。ただ、我々が用いる貨幣は、中央政府が発行したものとなっていて、そのあたりがおおいに異なる。現在のファイン・マットはサモア独立国政府がその増産政策を打ち出してはいるものの、政府に持って行ったら等価の現金と交換してくれる、ということはなかろう。もちろん、他のケースも同様である。そのように政府の信用に裏打ちされたものではないが、人々は慣習によりそれらの価値を認識し、受理していたのである。

 経済人類学の研究以前には、キギンなど民族学者が世界中のケースを集めて「原始貨幣」として研究を行ってきた*6が、これらが貨幣の原初形態なのかどうかには、さまざまな議論がある。人類学者はこれらを、交換財、貴重財、あるいは特定目的貨幣などと呼んできた。「特定目的貨幣」の逆は現代の貨幣であり、「全目的貨幣」である。何とでも取引可能な全目的貨幣と異なり、特定目的貨幣は特定のコンテクストでしかやりとりが行われない。

 従来貨幣には3つの機能があるとされてきた。欲しい物の対価として支払いを可能にする「交換」機能、価値を貯めておく「貯蔵」機能、価値の基準となる「価値尺度」機能である。しかし、特定目的貨幣は、コンテクストに依存してしかやりとりが行われないため、貯蔵機能を除く2つの機能に関しては不完全であるといわざるを得ない。

 そして、このような交換財ないしは原始貨幣、すなわち特定目的貨幣が進化して現在の通貨になった、ということに関しては、おおいなる議論が存在しており、栗本慎一郎などが疑念を抱いている点でもある。貨幣がどのようにして始まったかという点については、アダム・スミス以来、経済史の分野ではおおよそ以下の見解が語られている。まずは余っているものをそれぞれに交換していた。しかしそれだと自分の余っているものと欲しいものの組み合わせが相手の余っているものと欲しいものの組み合わせと一致しなくてはならず、一致しないものをとりあえず何か(誰でも欲しくて日持ちのするもの――米など)に一旦換えておくようになった。これが貨幣の始まりだという。しかしそれでは、特定目的貨幣のほとんどが使用価値のないもの(クラの財、ヤップの石貨などが典型)であることは説明できない。

 人類学者以外にも多くの読者を獲得したグレーバーは『負債論』(2016、原著2011)の中で、貨幣の始まりは負債のカタとしてとりあえず渡しておくものである、という議論を展開していて、これはなるほどと膝をたたくほどの発想の転換である。確かに、特定目的貨幣の用途は婚姻の際に贈るものとなっていることが多く、2つの氏族で花嫁交換をする限定交換で、与えるべき花嫁が存在しない場合、一旦の借りを示すものとして特定目的貨幣を渡しておくというのは人類学者としてはよく理解できるし、アフリカのティヴ人のようにそれを特定目的貨幣の真鍮棒について意識的に語っている人々もいる。渡す女性がいないから、代わりにいったん真鍮棒を渡しておく、と。しかしここから、一般交換などで贈られる独自の価値あるものの贈与に議論をつなげなくてはならないはずだが、グレーバーはそうではなくヨーロッパ史の議論に移行してしまい、未開社会の問題をそれ以上考察してくれていないのは残念である。

 さて、現代人にとってお金は絶対なくてはならないものであるが、それは現在既に我々が食料などを自分で生産することをやめているからである。仮に食料を自分で生産していたとしても、現代人は社会内の分業体制の一翼の生産ないしはサービスを担うことしかしておらず、常にその他の必需品は商品として買って、人生を送るようになっているからだ。お金は必要なものを買うために欲しいはずだが、特に欲しいものがないときでも欲しい。それは将来欲しい物が出てきたときにいつでも交換できるように価値の貯蔵をしておくということである。すなわち、お金とは他人が欲しがっているものでなくてはならない。誰もが欲しいと思っているから、お金が欲しい、という逆説が成り立つことになる。

 

通貨制度とアイデンティティ

 さて、第2回では海外コミュニティ在住のサモア人が儀礼交換に参加するということについての議論を展開したが、現在ではファイン・マットの交換はサモア人にとってのアイデンティティに等しいものとなっている。海外移民にとってファイン・マットの交換は本国との間で現金の形で多くを与える結果となり、交換だけをとらえれば損に損を重ねることとなる。それがいやで交換に非協力となれば、コミュニティからは「あいつはサモア人じゃない」と言われてしまう。コミュニティと距離を置くと、その外に追いやられてしまう、ということだろう。あたかもファイン・マットのやりとりはサモア人としての証であるかのようだ。これがトンガ人なら樹皮布ということになる。

 通貨とアイデンティティの問題は、あまり語られることはないが、経済活動の境界を守るという意味で、国民国家として実は重要な問題であろう。EUの統合度を高める意味で、ユーロという通貨統合がなされたことは記憶に新しい。それに伴ってユーロ圏の人々は単に通貨と経済を共有しているという認識だけでなく、統合がEUのアイデンティティを深める結果となったのではなかろうか。もちろんこれによってフランスとドイツは一緒の仲間だと人々が考えたというのはあまりに短絡的で、そう簡単な問題ではないだろうが。私はヨーロッパのことに関しては全く門外漢であるけれども、イギリスがポンドを手放さなかったというのは意味深長であると思う。

 また、経済人類学の特定目的貨幣研究の文脈では、地域通貨という新しい課題がある。これは地域の統合性を高めることや、助け合いの理念を深める哲学を共有する人々を繋ぐことを始めから企図している場合がよくあり、共有する価値意識をもつ人々のアイデンティティを高め、互いの助け合いを深めようとしているのだ。まさに通貨が連帯感を作り出し、コミュニティを生成するのである。

 小国なりとも、法定通貨をもつということは、人々のアイデンティティを強め、国家としての統合を高めるために重要であるはずだ。法定通貨は国民国家である印であり、独立国の矜持であるといえよう。しかしオセアニアの極小国では、法定通貨を持とうとしても国としての体力がないために、それが難しいケースもある。もともと人口の少ないミクロネシアでは、旧アメリカ合衆国信託統治領だった国々はすべて合衆国通貨をそのまま用いている。ナウル、ツバル、キリバスはオーストラリアの通貨、しかし、ツバルとキリバスは硬貨のみ発行している。財政の苦しい中、硬貨だけでも、ということだろうか。ニュージーランドの自由連合であるクック諸島とニウエは基本的にはニュージーランドの通貨を用いている。ただしクック諸島は、3ドル札や三角のコインなど、変わった独自通貨も発行している。

 メラネシア各国や、ポリネシアでもサモア独立国やトンガは、独自の法定通貨をもっている。それぞれに国家のシンボルとなるデザインが用いられていることは興味深い。フィジーのコインには、舟形の割れ目太鼓や、葉っぱで編んだうちわやかつて用いた棍棒が描かれている。トンガの紙幣には王の肖像が見える。パプアニューギニアのドルに相当する単位はキナで、その100分の1はトエアであるが、両方ともに比較的広域で用いられていた貝貨の現地語呼び名である。

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太平洋諸島の貨幣。コインの上段左2個はクック諸島、右2個はフィジー、中段サモア独立国、下段トンガ王国、紙幣は上がサモア、下がトンガ。

 これらは国家としての領域内で通用する通貨であるが、その領域を越えてグローバル化したサモア世界のアイデンティティを保つ装置のひとつとして、ファイン・マットを巡る儀礼交換の存在意義があるとしたら、これは大きなことかもしれない。

 

*1:イギリスの権威ある地図には、別名キリウィナ諸島とあるが、キリウィナは諸島内の一番大きな島の名である。現地で調査を行った人に尋ねたところでは、キリウィナを諸島名として用いることはないという。

*2:日本映像記録ドキュメンタリー(1971)『クラ―西太平洋の遠洋航海者』(市岡康子制作)。

*3:綾部恒雄・桑山敬己編(2006)『よくわかる文化人類学 第2版』ミネルヴァ書房、中島成久編(2003)『グローバリゼーションの中の文化人類学案内』明石書店など。

*4:Jerry Leach & Edmund Leach eds. (1983) The Kula: new perspectives on Massim exchange, Cambridge UP.

*5:Michael Balson (2000) Kula Ring of Power, U Hawaii Press, VHS Video.

*6:Alison Hingston Quiggin (1949) A Survey on Primitive Money: the beginning of currency, Methuen.

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