オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第2回 サモアのお金、ファイン・マットの謎

 西サモア*1に首長制の調査に行くことは、かねてより私の願望であった。当初ハワイ大学のスタディ・アブロード・ツアーに入れてもらって、およそ1ヶ月のサモア言語文化研修を終えた後、1978年6月には知人を頼ってサモアの村に住むようになったが、では実際に首長制をどのように研究するかについて確たるプランがあったわけではない。

 村の首長会議の参与観察をさせてもらうなど、さまざまな方向からこの制度にアプローチを試みたが、どうもとらえどころがない。しかし、次第に当時サモアでしばしば目の当たりにする儀礼交換(ファアラベラベ)に焦点が合うようになってきた。儀礼交換をイベントとして観察した場合、そこで交換されるモノの種類・数、交換する人間関係、儀礼の形などはデータ化しやすいからだ。

 

首長の悩みは儀礼交換

 儀礼交換のためには贈る財を集めなくてはならない。この慣習は人々の生活を蝕むと同時に、その肩に重くのしかかっていた。彼らも儀礼交換をチガーイナ(苦しい、負担だ)という。しかし終了後に、「どうだ。見事な儀礼交換だっただろう」と誇ったりもしていた。そのように人々にとっては誇るべきものでもあり、しかし結構な負担でもあるアンビバレントな存在であった。

 儀礼交換の中心となるのは、ファイン・マット*2である。これは、サモア語でイエ・トガと呼ばれ、パンダナスの葉の内側の葉肉を削いだ葉の表皮だけを、1ミリから3ミリ程度の幅に裂いた繊維を斜め平織りにして作った編み物である、と古い本には書いてあった。サモアの貨幣と記されている文献もあった。まだスタディ・アブロードの研修中に滞在していた村でお葬式があり、たちまち、これがあれか、と理解できた。しかし、実際のファイン・マットはごわごわした敷物と変わらず、それほどにすばらしいものであるとは思えなかった。当時、ファイン・マットの粗悪化は既に始まっていたのだ。もともと女性が半年から1年くらいかけて作る、しなやかで美しいマットだったはずが、内側の葉肉もとらない分厚い8ミリ~1センチ幅の繊維を1週間程度で編み上げた畳表よりやや大きい速成品であった。裾の方が編み放してあるのはかつてと同じである。しかし、昔のファイン・マットはフィジー産のオウムの赤い羽根の飾りが下の方についていたということだが、この頃には着色したニワトリの羽が用いられていた。

 ファイン・マットが大量に飛び交う儀礼交換の機会は結婚式、葬式、称号就任式、教会落成式などである。親族関係のネットワークがきっちり張られている大家族で暮らすサモアでは、しょっちゅう儀礼交換、特に葬式の機会は多い。その度にファイン・マットとそれに加えて現金が必要となる。かつては、タロイモやブタも交換されていたが、現在では、現金に加えて、カートン入り缶詰、コーンビーフなどの食品であるから、結局現金が必要なのだ。海外、特にニュージーランドに親族が移民している場合、電話をかける。1980年頃はまだ、固定電話がある家庭も少なく、固定電話があっても交換台で予約をしないと電話できなかったし、めちゃめちゃ高い料金だった。首都アピアの電話局に行くと、大概海外に電話をする人が列をなしていたものだ。対応する職員は手慣れたものである。「どこに?」「ニウシラ(ニュージーランド)」「支払いはトトギ・イ・オー(着払い)?」「そうです」の連続だった。現在、サモアからニュージーランドにプリペイドのケータイでかけると、1分35円位であるが、当時は電話局から着払いでかけたら3分で数千円していただろう。当時の物価を考えると、これはサモア在住の一般人にとってほとんど支払い不可能な額だった。一方の海外移民は、電話代に加え、儀礼に必要なお金の送金を本国の家族に無心されるのだから、高い給料をもらっているとはいえ、大変な物入りであった。

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1981年、西サモアにて。高位首長の葬儀でファイン・マットを贈る。

 

ファイン・マットの海外流出

 ファイン・マットは現地で生産されているものだったが、当時ほとんどの家庭ではファイン・マット不足で、儀礼交換の度に姻族、知り合い、近所を訪ねまくって調達していた。首都周辺はさほどではなかったが、田舎の方に行くと、しばしば女性は、掃除洗濯の済んだ後、日がな一日ファイン・マットを編んで暮らしていたから、不足というのはちょっと考えると不思議なことだった。

 当時、海外で葬式や結婚式があると、首長など地位のある人や、50歳以上の女性がしばしば招かれ、海外の親族の元を訪れることがあったが、彼らのチケット代は海外の親族が払ってくれている。その代わり、海外の親族のために、石蒸しのタロイモ、珍味のパルサミ(タロイモの葉で包んだココナツクリームのグラタン)、セア(ナマコのはらわたの瓶詰め)などを、航空会社の段ボールに納め、ファイン・マットを黒いビニールのゴミ袋に詰められるだけ詰めて持参していくのだった。あとで聞くと、海外の親族の葬儀や結婚式に列席したあと、歓待を受け、お土産を配り、さらに返礼の現金を懐に帰国するのである。

 サモア国内での儀礼交換に海外の親族が訪れることもしばしばあり、見ていると彼らは多額の現金をばらまいて行った。儀礼に列席した牧師たち、高位首長のみならず、すべての首長たちにそれとなく現金を贈り、親族と一緒にでかけると、ホテルやレストランで食事をおごることもあった。要するに、海外移民からは現金が、サモアにいる人々からはファイン・マットが流れていく、ということが生じていたのである。

 ファイン・マットは貴重財であり、サモアでしか作れない。正確に言うと、原材料のパンダナス(タコノキ)の葉はサモアでしかとれない。したがって、一般的にはサモアから海外移民に渡すべきものという理解が成り立っていた。しかし実際にはどうだろう。現金はその都度使われ、食料や日用品に変わっていくが、ファイン・マットは一般的に通用する「お金」ではなかったから、儀礼に至るまで、海外サモア移民は家のクローゼット等に保管しておくものであり、やりとりがあっても移民コミュニティ内の総量は減らず、むしろ本国から補充があるので次第に海外移民のところで増えていくというのが実際に起こったことだった。道理で、サモアではつねに不足していたわけである。

 1980年代終わり頃の海外サモア人コミュニティでは、既に10枚1束で贈ることが普通だった。1993年にニュージーランドのオークランドで調査をした折には、その数年前に大きな儀礼交換で取り交わされるファイン・マットの数は1万枚を超えてピークに達したのだが、その頃には人々は前ほど関心を持たなくなっている、と聞いた。オークランドの教会連合が、聖歌隊のコンクールの賞品にファイン・マットの束を充てたところが、参加が少なくて不人気だったらしい。

 

ファイン・マットの粗悪化

 19世紀終わり頃から20世紀初めにかけて書かれた文献によれば、ファイン・マットは半年から1年を費やして作るもので、目の詰んだ美しい仕上がりとなるはずである。これを少なくとも1枚仕上げてからでないと女性は結婚できないと書かれているし、村の王女*3がよその村の高位首長やその息子と結婚するときには、多数のファイン・マットが持参財となるのであった。私が1980年頃に見たしろものは全く違っていた。まさにゴザというのがふさわしいようなもので、ごわごわしているし、目も粗く、手入れもそれほどよくないし、見た目で価値のわかるものではなかった。海外の移民2世は、親たちが大金を持って儀礼に行き、代わりに持ち帰った薄汚れたファイン・マットの意味を理解できず、よくよそ者の私に愚痴った。

 調査を始めた1980年頃は、1枚仕上げるのに1週間とか言っていたが、2000年頃には、2日とか1日といった話になっていた。美しくもなく、外目にその価値が理解できないようなファイン・マットしか見てこなかった私は、1996年に西サモアで太平洋芸術祭が開催されたとき、現代アート――現代作家の絵画・彫刻など――の展示カタログの表紙がファイン・マットの編み目の拡大写真で飾られ、そこにメア・シナ(貴重なるもの、至宝)とタイトルが書き込まれていたのだが、その意味がよく理解できなかった。確かにファイン・マットは別名メア・シナと呼ばれることもあったが、そんなに自慢の品で世界に誇るべきものであると、まだサモア人が考えていたとは思ってもいなかった。それほど、文化財としてのファイン・マットは形骸化しており、現代サモアの儀礼交換制度を抜きにサモア人が価値を置く意味は理解できなかった。

 当時ファイン・マットが粗悪化していたことについて、人々は、現代人がパイエー(怠け者)であるとか、生活が忙しくなって根を詰めた仕事ができなくなったから、といった説明をしていた。確かにそれは理解できる。昔はすべての女性がファイン・マット作りに従事していたわけだが、現在では教師や看護師、政府役人、一般企業などで働く女性も少なくないし、アメリカ領サモアの女性は、離島の人を除いてファイン・マットを作らなくなっている。しかしそれ以上に、私は海外に始終ファイン・マットを流出させているということを考慮しなくてはならないと考えるようになった。

 サモアはまだ互酬性*4が広く行われている社会である。移民は現金を多く稼いでいるわけだから、彼らから送金があることは当然と人々は思っているが、やはり多少なりともお返しをしなくてはならない、という意識も一方にある。送金をしてもらう都度、ファイン・マットを金額に応じて贈るといったことはしていないが、何か機会があれば、代わりにファイン・マットを持参したり、贈ったりするのであった。しかし、その送金に見合うだけのファイン・マットを贈る数合わせのために、粗悪化が生じたということは間違いない。

 それがだんだん嵩じてくると移民からの送金へのお返しというよりは、送金してね、あるいは現金ちょうだいね、という意味を込めたファイン・マットの贈与が行われることとなった。

 

ファイン・マット生産

 マラガというのはサモア語で旅行という意味である。しかし1人で旅行することはあまりなく、かつてはマラガとは村の中で構成される団体(首長会議、若者組、娘組、婦人会など、現在では教会のサブグループ、聖歌隊、青年会などが多い)が、誰かの縁故をたどってよその村を訪れることであった。少人数のこともあるが1人ではない。人々はファイン・マットさえ持参すればよく、歓待を受け、寝る場所や食事を無条件で提供してもらうことができた。現在は、教会などの資金集めに、サモアから海外の教会にマラガすることが広く行われている。

 ファイン・マットとちょっとしたお土産を持参する。寸劇やダンスを見せるショーをやって観客からは投げ銭を集め、相手の教団からはまとまった献金をいただく。その御礼としてファイン・マットの贈与が行われるのである。マラガでは通常の儀礼交換で行われるよりも多額の現金が集まり、人々は新しい教会やホールなどを建てる資金とすることが多い。

 ファイン・マットはこうして、現金の対価ではないが、現金と反対の方角に流れる財として、西サモアの非都市化地域、特に首都のない方の島、サヴァイイ島でもっぱら製作が行われる品となった。あまりおおっぴらでなく、市場で買う人を探して売る、といったこともなされたが、そうでなくても、ファイン・マットを作っていれば、誰か欲しい人が来て、譲ってくれないかということになるし、そうするとすぐに対価を得ることはなくても、御礼の形でいずれは現金ないし食料の形で返ってくる。また、自分がファイン・マットを必要とする儀礼に出席しなくてはならなくなった場合には、持参すればよい。現金収入の道が限られているサヴァイイ島の女性たちはこぞってファイン・マットを編むという「内職」に従事した。

 次第にファイン・マットが余るという現象が始まる。西サモアでは、ファイン・マット1枚を10サモア・ドルに換算して使っていたが、やがてインフレとなり、5サモア・ドルまで値下がりした。アメリカ領サモアに滞在した1992年12月には、西サモアからやってきた教会関係者がトラックにファイン・マットを大量に載せてきて、いくらでもいいから買ってくれないか、教会を建てる資金にするから、と言ったという話をある牧師館で聞いた。既に部屋一杯のファイン・マットがあった*5が、100枚を1000ドルで買ってあげたという。

 同時に差別化が生じる。おそらくは数だけで敬意を示すのでは飽き足らない気持ちが生んだと思われるが、大きなファイン・マットが登場するようになった。90年代には、アメリカ領サモアでも、アメリカ合衆国本土でもニュージーランドでも、とてつもなく大きなファイン・マットが儀礼交換に登場するようになり、最上級の敬意を払うべき牧師や、姻族、高位首長などに捧げられるようになっていた。5m×3mなどは小さいほうで、横が10m位あるものもあった。

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1993年、オークランド(ニュージーランド)にて。大ファイン・マットの贈呈。

 

ファイン・マット復興運動

 こうしているうちに、1990年代の始め頃に、サモアではファイン・マット復興の動きが始まる。以前は、先進各国の援助は途上国の政府に与えられるものであったが、NGOにも援助事業が任されるようになり、サモアにもさまざまなNGOが設立される。その中にWomen in Business Foundation (現在では、Women in Business Development Inc.に改称しており、ここでは以下、WiBDIと呼ぶ)というNGOが活動を始めた。女性のビジネス界への進出を後押しする事業展開を行っていたが、現在では開発事業一般を扱い、男女の区別はなくとりわけ有機農業を後押ししている。90年代には女性関連の事業に大変熱心であり、その頃に女性が誇りを持てる仕事として、ファイン・マットの復興を始めた。ニュージーランドのODAの援助を得たりしながら、かつてのファイン・マット製作技術をもつ老女を探し、ワークショップを行って、手探りで「本物」のファイン・マットが作れる女性たちを育てていった。緩やかなインフレの中、労賃も次第に上昇しつつあり、観光産業も90年代には始まっていた。人々の生活にはますます現金が必要となりつつあったし、政府も人々の現金収入を増やすことを奨励していた。

 速成のファイン・マットは、目が粗いだけでなく、繊維の作り方も不十分だった。もともとはパンダナスの中でもラウ・イエという種類の葉を使うが、速成ファイン・マットはラウ・ファラという寝具マットの材料を使っていた。ラウ・イエはトゲが多くて作業は容易ではなく、また収穫量が少ないので、栽培を増やす努力が必要であった。まず、1m半ほどの長い葉を大釜でゆでてから、1週間ほど海水につけて漂白する。その後天日干しにし、何度もしごいて柔らかくする。編むときには、細く裂いて、表皮だけにして、表皮を2枚背中合わせにして斜め平織りにする。完成には1年、早くて4ヶ月ほどかかる。速成ファイン・マットがごわごわして重いのに対して、本物のファイン・マットは軽くてしなやかである。

 

女性の現金収入とファイン・マット

 現金が重要な世の中に変化しつつある中、女性の現金収入を増やすことと、誇りある仕事を行うという意味で、ファイン・マット製作は理想的であった。しかし難題は、製作に時間がかかることである。誇りあるファイン・マットを作り高い値段でそれを売ったとしても、編み始めから仕上がりまでの時間は無収入になってしまう。そうなれば、誇れる「本物」を作りたい気持ちがあっても現実にそれを作ることは難しい。そこを仲介する方法を考えたのはWiBDIであった。WiBDIは、ファイン・マットを買いたいという人(購買者)と編みたいという人(編み手)を見つけその仲介をするだけでなく、購買者からは定期的に振り込みをしてもらい、編み手の作業を監督して、できあがりに応じて給料を支払う、という仕組みである。これをスポンサーシップ・スキームと呼んだ。購買者にしてみても、それだけ高価な品を一度に高額の支払いをして買うのは難しいが、分割払いで支払うなら何とかなるかもしれない。編み手の中には、これを子どもの授業料に充てた人など、定期収入を得てさまざまに役立てることができた人がいたようだ。また、サモアでは互酬性意識が強いので、いっぺんで高額の支払いを受けたりすると、家族や親戚におこぼれを渡す必要があったりして、まるまま収入を思い通りに使ったりできない。その意味で、月々、あるいは2週間毎の給料としてもらうなら、上手に使うことができる。

 WiBDIの女性の誇り回復と現金収入確保の動きに連動して、政府もこの事業に関わるようになった。村々に出向いて、伝統的な制度として女性が集まってファイン・マットを編んでいたファレ・ララガ(編み物の家)を結成するよう働きかけ、女性の仕事ぶりの視察を行うようになった。また1年に1度コンテストを開催して優勝者には賞金を出すなどの活動も行った。政府のこの制度でファイン・マットを完成した人は、WiBDIのスキームを通さずに購買者を見つけたが、政府は紹介も行った。

 サモア社会はかつてよりずっと格差が目立つようになってきた。政府高官、牧師、医者、弁護士などの収入は半端ではない。そういう人が顧客である場合もあるようだが、実は購買者には少なからずトンガの貴族がいるという。白人がこの海域を訪れるようになる以前から、サモアとトンガの間には交易関係があった。トンガでは、サモア伝来のファイン・マットをキエ・ヒンゴア(名のある布)と呼び、家宝としてきた。サモアではファイン・マットは儀礼交換で人にあげてしまうものである――実際に立派なファイン・マットを、自分ないしは親の葬式、娘の結婚式などのためにしまっておく人もいるが、それはそういう一世一代の場面で贈与するためである――が、トンガでは儀礼の折に身につけ、威信を示すものであるらしい。儀礼が終わったらまた持ち帰るのである。

 2011年に調査した折に、1mm~1.5mm幅の繊維で作った1等級のファイン・マットは当時5,000サモア・ドル*6位していたので、仮に1年に2枚作ることができるなら、10,000サモア・ドルを稼ぐことができ、これは当時の末端の役人の給料にも等しい。ただし、購買者と編み手がごく小さな市場内で取引している状態であるから、需給のバランスがずっと保たれるかは微妙である。2013年と2017年にサモアを短期で訪れた限りでは、編み手は増えつつあり、値崩れも生じている印象を受けた。ある一定の値段を割り込むとたちまち製作意欲は衰えると思われる。

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2011年、サモア独立国(旧西サモア)の非都市化地域、復興した「本物」ファイン・マットを編む女性たち。

 

麗しのファイン・マット

 サモア調査に関わる人類学者の多くは、ファイン・マットを過去のオセアニア芸術の博物館ないしは美術館収蔵品のようなファイン・マットとして考える傾向があり、名のある収蔵品やそれにまつわる語りを議論することにもっぱら取り組んできた。そして粗悪化した「偽の」ファイン・マットの存在は蔑み、無視し、ほとんど考察してこなかったと思う。粗悪化が、古い技術を忘れた近代化のために生じたとして片づけてしまうことが多いが、粗悪化にはサモア人のグローバル展開とおおいに関わりがあったと私は考えている。

 それでは、なぜ復興運動が起こったのか、と読者は問うかもしれない。これは仮説の域を出ないが以下のように考えられないだろうか。粗悪化したファイン・マットの価値は、過去の栄光にとらえられている間、ある程度保たれていたが、それが10ドルが5ドルになり次第に低下していたから、文化財としてのテコ入れが必要であった。また、海外移民との関係を保つためにも、伝統文化の復興は意義あることである。海外の移民(ニュージーランド、オーストラリア、アメリカ合衆国各地、ヨーロッパに住む人たちもいる)、特に海外育ちの移民にとって、ルーツであるサモア諸島を訪れ、その「本物」の文化に触れることは心躍る経験である。本国と移民を結ぶグローバル化したサモア世界のサモア的なるものの中心はサモアでなくてはならない。

 博物館でかつてのファイン・マットを見たことはあったが、実際に本物志向のファイン・マットが儀礼の場で取り交わされることを見る機会はほとんどなかった。現在も「本物」のファイン・マットは退蔵される傾向が強いが、2012年に行われた独立50周年記念祭の終わり近くに、賓客の太平洋各国元首に贈られたファイン・マットは確かに「本物」であった。実際の贈呈は、両隅を2名の女性が広げて持ち、足早に贈呈先へと持って行く。届いたとたんにたたまれてしまうのであるが、その5秒か10秒の間、ファイン・マットの裾はそよ風の中でやさしく揺れていた。それは本物であることの証である。まさにメア・シナ(至宝)であった。

 

※「ファイン・マットとその価値」は2019年現在、UNESCOの無形文化遺産候補リストに入っており、最終決定は年末に行われる。

※※ この章は、山本の近著『グローバル化する互酬性―拡大するサモア世界と首長制』(弘文堂、2018年)の内容をかみ砕いたものである。

 

*1:1962年独立後、しばらくは西サモアと呼ばれていたが、1997年サモア独立国に改名。

*2:昨年刊行の著書の表紙にアンティークのマットの写真が出ている。

*3:高位首長の娘格のタイトルをもつ女性

*4:売買とは異なり、贈与の慣習などを通じてものやサービスのやりとりがなされること。

*5:牧師はファイン・マットをもらう機会が多いし、経済的にも恵まれている。

*6:1サモア・ドルはこの調査の時点で35円程度。現在(2019年)42円程度。

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