オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第1回 はじまり

オークランドの現代劇

 2019年3月のオークランドは、時に寒い日もあるが、残暑を残しつつ晴天の気持ちよい日々が続いた。オークランド芸術祭の出品作のひとつである『クペの英雄航路』(アピラナ・テイラー作)の一人芝居が演じられたのもそんな日の昼間であった。

 クペは、マオリの複数の部族に伝わる英雄譚の主人公で、この劇中では、ライアテア(ソシエテ諸島のうちのひとつの島)にて、ライバルの首長と争うことになり、クラ・マロティニという名の妻と子どもたちを伴い愛船マタホウルアに乗り、後にニュージーランドを発見する船旅に向かったとされる。ライバルの飼っている大ダコの怪物と戦う場面などの挿話があり、ニュージーランドの土地を発見して、クペの子どもたちはそれぞれにマオリの部族の開祖となった。この話には部族によってさまざまなバージョンがあり、ハワイキ*1から来たとされる話、別の島から来たとされる話などもあり、またそれぞれの部族の話の間には矛盾もあるということだ。

 演じたのはトラ・ニューバリーというおそらくは30代前半の役者でマオリの血を引くと思われるが、プログラムにはそのような言及は全くなかった。プログラムの中では、AD1000年頃の話となっていたが、これはおそらく口頭伝承の系譜から逆算したもので、考古学の成果では、ニュージーランドにはAD1250年頃に人が住み始めたとされている。つまり結構新しい話なのだ。時にマオリ語も交えて行われた劇は、しかし、ほぼ現代的な演劇の手法がとられていた。

 

遠洋航海術を誇ったポリネシア人

 ポリネシア人が西欧人と密な交際を始めたのは、キャプテン・クックが踏査探検の旅を行った18世紀後半である。彼らが保持していた航海術は当時でも世界に誇れる技術であった。クペはソシエテ諸島(タヒチ周辺)あたりから、ニュージーランドまで、遙か4000キロ近くを船でやってきたわけであるが、それに遡るAD800年頃には、マルケサスもしくはソシエテ諸島からハワイ諸島への移住が行われていた。キャプテン・クックが訪れたハワイでは、彼らの源流はオタヘイテ(タヒチ)であるといっていたと記録されている。なお、最初の移住はマルケサス諸島のようだが、タヒチあたりとも往来があったことは考古学的にも証明されている。

 実際に18世紀後半には、ポリネシアでの海洋航海は下火になっていたようであるが、クックの記録でも数百人が乗船可能なダブル・カヌーが存在していたことがわかる。かつての航海術の復元を行った人々によれば、夜の航海での星座の活用(独特の海図が存在した)、海の色、潮の流れ、波、雲の形などを観察することで航海が行われたという。日本ではいまいちの人気だったが、ディズニー映画の『モアナ』では、まさにそのような航海術が披瀝されていた。水平線を見て、あのあたりに島がある、と見極めることができたという。ハワイの先住民運動の中で、ホークーレア号というダブル・カヌーが復元製造され、タヒチまでの先住民航海術による航海が実現したのは、1976年のことであった。釣りに出たポリネシア人が難破して無人島にたどり着いた結果、ポリネシア地域への人々の拡散が達成されたという見解を覆し、積極的に移住を行うことが可能であったことを示したといえる。

 

グローバル化するポリネシア人

 ポリネシア人は19世紀には植民地化の対象となることが多く、ほとんどはもといた居住地域にそのまま居住する(ないしはもっと狭められた領域に閉じ込められる)ことを余儀なくされていたが、20世紀も半ばになると、再び積極的な移住が行われるようになってきている。もちろん、貧困・失業などのため余儀なく田舎から都市への移住が行われた側面もある。ニュージーランドでは、第二次大戦後に工業化が達成された結果として、非都市部居住のマオリたちが都市に移住して労働者となった。彼らの多くは、出身地とつながっているが、都市マオリという新しいカテゴリーの人々の独特な世界が生み出されたともいえる。また、第二次大戦後に太平洋諸島に住むポリネシア人たちも、新天地を求めて移住している。

 

ニュージーランド、アメリカに拡散するサモア人

 筆者が主に調査研究を行っているサモアは、もともと同じ文化を共有する諸島であった。言語も政治組織も共有していたが、19世紀の帝国主義時代にドイツとアメリカによって東西に分断されて、西サモアとアメリカ領サモアに分けられてしまった。西サモア(当時は独領サモア)は、第一次世界大戦を経てニュージーランドの委任統治領となり、1962年に太平洋諸島としてはじめての独立を勝ち取った。が独立前後から、ニュージーランドへの移民が続出しており、現在ニュージーランドは毎年一定数の移民を受け入れている。さらにニュージーランドとオーストラリアの間の行き来も容易であるから、ニュージーランド国籍や永住権を得たサモア人は、容易にオーストラリアに来ることもできる。かくしてオーストラリアにもサモア人コミュニティが存在する。また、東はアメリカ領として現在もとどまっており、こちらは、アメリカ国民としてアメリカ本土との間を自由に往来可能である。主にハワイやカリフォルニア、アラスカなどに住む。

 こうして多くのサモア人が、環太平洋の主に都市地域に住み、現在では、サモア諸島に居住するサモア人人口より、海外に居住するサモア人人口の方が多い。まさにグローバル化している。通婚の結果としてヨーロッパに住む人々もいる。ニュージーランド生まれのサモア系写真家エディス・アミツアナイは、2000年代に世界中に住むサモア人の家族を訪問し、彼らのリビングルームの写真を撮影して回った。老若男女の家族の写真や、学校・スポーツクラブの集合写真をいくつも額に入れて飾り、ところどころにレイをかける。ハイチーフの位を示す赤いパンダナスの実をつなげたレイや造花もある。大きなテレビがあり、結構大きなソファには、トロピカルデザインの布がかけてあったりする。サモア特有の入れ墨をした人物も映り込んでいたりする。何かごちゃごちゃ満載のリビングの姿は、サモア本国でもしばしば目にする光景である。

 一方、ニュージーランドでは、2013年のセンサスで、人口の7.4%(およそ30万人)が太平洋諸島出身者であり、そのうち半数近くがサモア系である。その他、トンガ、クック諸島、ニウエ、トケラウ――クック、ニウエはニュージーランドの自由連合国であり、トケラウは属領、いずれもニュージーランド・パスポートを支給される。後3者は本国よりニュージーランドに住む人口が数倍になっている。ニュージーランドの太平洋諸島出身者のうち、3分の2はオークランドに居住している。

 

オーストラリア、イギリスに拡散するマオリ人

 さて、ニュージーランドの人口約424万人の7人に1人はマオリであると自認しているということであるが、現在100万人のニュージーランド人が海外に居住していると推計されていて、これを単純に当てはめれば14万人のマオリが海外にいることになる。一番多いのはオーストラリアに住む人々である。シドニーには7000人ほど住んでいるとのことで、現在マオリの集会所であるマラエ建設運動が進んでいる。アボリジニは認めてくれているようであるが、しかし地方議会が許可してくれていないので青写真のまま進まなくなっている。その次がイギリス、3番目がアメリカである。ロンドン郊外のサーレーには、ニュージーランド総督を務めた人が持ち帰ったマオリの家がある。インターネットで見る限り、小ぶりであるがマオリの彫刻が施された立派な建物である。

 それほど数は多くないが、日本にもニュージーランド出身者は住んでおり、マオリ・ダンス(ハカ)の同好会があったりする。リコーに所属していたエディー・イオアネというラグビーの選手がいて、サモア代表を務めてもいたが、その妻はサンドラ・ウィホンギというブラック・ファーン(ニュージーランド代表女子チーム)のメンバーだった人で、その息子、アキラ(日本生まれ)とリエコ*2(男性)はオールブラックスに選出されている。

 20世紀後半になって、ポリネシア人の海外移住は実に盛んとなった。クペの子孫たちは新天地への冒険を全く恐れず、どんどん新たな地へと進出を続けている。世界中のポリネシア人人口の総計は決して多くないから、知る人ぞ知るかもしれない。しかし、そのディアスポラぶりはまことに恐れ入るばかりである。

 

 

読者の皆さまへ

 筆者は、人類学者の卵として最初に調査に出かけたのが、西サモアであった。ハワイ州にあるイースト・ウェスト・センターの奨学金を受領して調査にでかけた。当時日本から調査に出るとなると、自費でというのはちょっと無理であったが、さまざまな奨学金を何とか受領して仲間たちは散っていった。長い人類学人生の間に、最初の調査地とは違うところにも研究を広げていく仲間が多い中で、私のように最初が西サモアで、複数の重い論文を書いた後もサモアでの調査を続けているというのは必ずしも多くない。近隣の太平洋諸島での短期調査を行った経験はあるが、いわゆる言葉を覚えて、調査目的以外の知識も集め、長らく深掘りの調査を続けることになったのがサモアだけであるのは珍しいかもしれない。しかしそれを可能にしてくれたのは、この世界各地に散らばるサモア人の存在であった。イースト・ウェスト・センターやハワイ大学にいて、ハワイに住むサモア人の調査も行った。カリフォルニア大学バークレー校で2年間の在外研究を行ったときに、サンフランシスコ湾岸のサモア人コミュニティの面々とも親しくなった。LAやシアトル(具体的にはシアトルの南のタコマ市に大きなコミュニティがある)も訪問している。またさらに、ニュージーランドのサモア人も幾度となく訪ねる機会があり、またオークランドを訪問したばかりである。

 このように、オセアニアの島々の人々と続けてきた断続的なおつきあいの中に見えてくる風景をこのシリーズでは描いて見たい。サモア在住のサモア人たちは、私が調査を始めた1980年前後にはまだ半自給自足の状態であった。学校の授業料、衣類等には現金が必要だったが、食料は自分たちで作っていた。現在でも自分たちの消費する食料は自分たちで生産しているケースは多い。そして多分に慣習に基づく生活を送っている。土着の慣習ではなくても、キリスト教の布教は彼らにおおきな影響を与えたが、一方で彼らなりのキリスト教の取り込み方をした。しかし、サモア人にとって重いのは、儀礼交換の営みである。さまざまな儀礼の度に、伝統的財と現金とが必要となる。その重圧が彼らの海外進出を加速したといってもよいかもしれない。商品経済以前の互酬的環境にとらわれながら、現代的な生活の営みもある。スマホを操り、フェイスブックで世界各地に散らばった親族と写真のやりとりをする、大変モダンな側面――日本人にとっては想像できない位グローバルで前衛的になっている側面――と伝統的モラルにどっぷりつかった側面とが共存している。そんな風景を月に1回ずつ描いてみようと思う。

 

*1:プロトポリネシア語で故郷を意味する。ポリネシア人が自分たちの原郷として言及する島。

*2:Riekoと綴る。日本ではリーコ、リコなどとも表記。

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