オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第18回 遺骨等の返還、文化財の返還

 いよいよこのシリーズも最終回を迎えることとなった。編集者も周囲の人々ももっとできるのではないか、と引き留めてくれる。しかし、小説家の新聞連載ほど大変ではないとは思うが、月1回、ないしは2カ月に1回更新するというのは、結構エネルギーのいる仕事である。おおよそ8000字を目安としたつもりだが、最近は10000字を超えることが多い。他に本腰を入れなくてはならない仕事もあるので、惜しまれるうちが花だと思い、ここまでにしようと考えた。私ごとではあるが3月末日で定年となったので、本来ならそのときに区切りをつけるつもりだったが、「遺骨等*1の返還、文化財の返還」は是非書きたいのでこれを終わりに持ってきたいと思っていた。しかし、3月末はともかく忙しくて、とても書けなかっただろう。2年間で18回連載したのは、遅筆の私としては上出来で、それなりに達成感もある。

 さて、今回は、ポストコロニアル時代に相応しいテーマである。サモアでも後に述べるニュージーランドなどと同様に遺骨等の返還とかあるだろうかとググってみたが、見つからなかった。むしろ、海外で亡くなった人の遺体を運んできたら、即エンバーミング*2せよとか、火葬もよい、とか厚生省の指針がサイトには上がっている。近年病気が重くなると、可能な場合はニュージーランドの親族を頼り、終末はそちらの病院で迎えることが多い。そうした遺体はサモアに運んできて葬儀となることが多く*3、そのときに遺体による(菌やウィルスなどの)感染防止とか遺体の腐敗防止の意味である。植民地主義下で海外に散逸した遺体を返せ、といった主張とは全く性質の違うものなのだ。

 

植民地主義下の収集と博物館

 さて、過去の文化遺産は、近代の国民国家の生成と共に、重要な民族アイデンティティとなっているが、18世紀、19世紀の植民地主義の時代、世界中を列強が分割し支配した時代には多くの文化財が欧米の列強各国に持ち去られた。

 世界の事物の探求といった目的で世界中から標本を集めたキャプテン・クックの遠征のようなものもあったが、ともかく物欲に任せたとしか思えないもの、珍しいものを許可無く持ち帰るという場合も多くあった。

A Maori man and Joseph Banks exchanging a crayfish for a piece of cloth, c. 1769
マオリ人とザリガニと布きれを交換する、クック遠征に同行した博物学者ジョゼフ・バンクス。
バンクスではなく一兵士とする説もある。
Tupaia, Public domain, via Wikimedia Commons

 キャプテン・クックは、植物学者、動物学者等々の学者を遠征に何人も連れて行き、写真技術の無い時代であったから、画家に現地の絵を描かせ、動植物の標本を集めて廻り、現地社会を観察しては航海日誌に書くということをしてきた。それらの標本や民族学資料は当然のように博物館入りした。現在ではもう現地で作られていない貴重な資料があることがしばしばだ。第15回「オセアニア・アート」で説明した通りである。

 当時は異文化への関心が高く、冒険家、探検家も多くいて、古代文明の栄えた地域に行く考古学者などの持ち帰る出土品の中には出所の怪しい文化財が少なからずあった。世界的に有名なものとしては、エジプトから持ち去られたロゼッタ・ストーンやネフェルティティの胸像、新大陸から持ち去られたモンテスマの頭飾りなどがある。

Rosetta-stone-display-in-1985
大英博物館に展示されているロゼッタ・ストーン(1985年撮影)。
RickDikeman, CC0, via Wikimedia Commons

 ロゼッタ・ストーンは、ギリシャ語とヒエログリフ(古代エジプト語)が刻み込まれた板状の石である。ヒエログリフの解読に役立つ貴重な資料であったが、これを発見したのは、ナポレオンのエジプト遠征に同行した軍人で、1799年の事であった。シャンポリオンなどの解読により、ヨーロッパでは一躍有名になった。それは何ら疑問なく発見者のもの、すなわちフランスに帰属するものとして扱われた。しかし、1801年にやってきたイギリス軍にフランス方は負け、その結果、ストーンの所有権はイギリスに移った。それから大英博物館に収められ、現代に至っている。しかし2003年にエジプトが本来の所有者として名乗りをあげ、返還を求めている。概ねこの主張は認められているが、大英博物館は返還を行ってはいない。

Nefertiti berlin
ドイツ、ベルリン、新博物館に展示されているネフェルティティ胸像(2006年撮影)。
No machine-readable author provided. Zserghei assumed (based on copyright claims)., Public domain, via Wikimedia Commons

 ネフェルティティは、ファラオであったイクナートンの正妃で、ツタンカーメンの義母に当たる女性で、その胸像は、1912年にドイツ・オリエント協会を率いるボルヒャルトによって発掘された。出土品の分配を決める協議において、ボルヒャルトはちょっとしたズルをしてこの胸像を持ち帰り、しばらく隠した後、1924年にベルリンで公開した。エジプトは直ちに返還要求を行っているが、実現していない。第二次世界大戦を挟み、いくつかの場所に移管されるなどの運命を辿り、現在はベルリンの新博物館に展示されている。

Feather headdress Moctezuma II
メキシコ人類歴史博物館に展示されているモンテスマの頭飾りのレプリカ。
Thomas Ledl, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 モンテスマは、アステカ帝国(メキシコあたり)の王で、帝国は16世紀にスペイン人の征服者エルナン・コルテスにより滅ぼされた。このヨーロッパ人の新大陸征服の時代に彼の頭飾りは(分捕り品として)おそらくヨーロッパに持ち去られた。宝石や美しい鳥の羽根飾りがついている。王侯貴族の宝物となったのち、現在はウィーンの民族学博物館に展示されているが、メキシコが返還を要求している。

 過去において、戦勝国は戦敗国のものを自分たちのものと(略奪)することは当然とされており、それが故にフランスがロゼッタ・ストーンを自国のものと考え、さらにイギリスがそれを分捕る、といった構図があり得たのだろう。また、植民地支配の下で、被支配の領域にあるものは気軽にもってきてしまう、ということは数々見聞されるし、ネフェルティティの胸像のように「盗まれた」こともある。また、高く売れるというので、被支配者の間でいかなる取引や売買、盗難があったかは、あとで議論するように、計り知れないものがある。

 エジプト、ギリシャ、トルコなど、多くの文化財の散逸を抱えている国々ではそれらを取り戻す努力を重ねている*4。実は日本も足下はおぼつかないところがあり、戦後になって旧植民地であった韓国から多くの文化財返還要求を受けている*5。国際常識としては、不正な方法で入手された文化財は返還されてしかるべき、となっており、盗まれた絵画などの返還に関しては新聞記事などでも多く目に触れるところである。

 博物館は世界支配の象徴である、という議論がある。例えば、大英博物館やルーブル博物館などはそういった受け止め方が可能なほど、世界から集めた計り知れない価値をもつ文化財の展示であり、世界中から人がそれらを見るために押しかけてくる。そしてそれら大博物館では現在、多くの文化財由来の国々から返還要求を受けている。文化財は、その由来する国の国民(nation)にとっては国民国家の成り立ちに関するものであり、人々の記憶であり、今日の存在の根拠となるものであるという認識がある。原則として、不正な形ないしは不正な経緯を経て入手されたものは、返還要求があり得るし、それらについて返還すべしという国際条約もあるが、国際的な交渉ともなると事実関係の認識において両国で異なっている場合もしばしばである。

 概ねそれらの世界中の文化財を集めた「偉大な」博物館が文化財を返還しない論理としては、これらの文化財は人類共通の宝であり、それをきちんと保存し展示することは使命である。ここにあるからこそ、保存が可能であるし、世界中の人々がここに来てすべて閲覧することができる、という主張である。返還したとして、文化財がきちんと管理され良好な状態を保つことが可能であるかどうか疑わしいということが、返還しない理由とされることもある*6

 文化財の返還はなかなか難しく、保持している側の善意で返還された例もあるが、まだ動きは鈍いと言わざるを得ない。しかし、通常の文化財と若干異なるのが、遺骨等人体由来のものの返還である。

 

先住民運動と遺骨返還の動き

 遺骨等が博物館や研究施設に納められた経緯は人類学との関連が大きい。すなわち人種学や遺伝学のサンプルとして、とりわけ少数民族の人骨は科学的研究を目的として収集された。それぞれ国内の大学の人類学教室、解剖学教室や博物館などの収蔵庫にはそのようなコレクションが納められた。博物館展示に登場することは少なかったが、最後のタスマニア人であるツルガニニの遺体や次節のようなケースもある。

 多くの国で先住民の人権は無視され、虐げられてきた。先進国の主流の人々(含人類学者、考古学者)は、自分達の先祖の骨がそのように扱われることは想像だにしなかったが、先住民の骨を収集するのに躊躇は無かったのである。発掘により入手する場合もあり、中には無許可で墓を掘って持ち去ることもあったようだ。

 先住民運動の始まりは、アメリカ合衆国の公民権運動とおおいに関わりがあり、1960年代末に始まっている。種々の権利回復が訴えかけられたが、遺骨や文化財の返還は大きなテーマであった。1990年にはNAGPRA(アメリカ先住民墓地保全遺骨返還法)が制定され、大学や各地の博物館は収蔵するアメリカ先住民の遺骨のリストを作り、関係トライブに知らせる義務があり、関係トライブは遺骨を受け取り、再埋葬を行うこととなった。多くの研究機関の動きは必ずしも積極的ではなかったが、この作業に予算もついたのである。

 ただし、1991年にイリノイ州にある考古学博物館を訪問する機会があり、その経験からは、この動きは直ちに反映されたものではなく時間がかかったと思われる。その博物館は、発掘現場に建てられたもので、一部発掘現場の地面そのものを廻りから見ることができるようになっており、発掘中の人骨が地面に露出していた。

 加藤博文によれば、法制化が行われたのは合衆国だけで、その他の国は法律の制定はなかったが、それぞれの国では何らかの形での予算措置や仕組みつくりがなされているので、政策的な動きは当然存在していた*7。オーストラリアでは1970年代から議論が始まり、遺骨と共に祭具などの返還も行われた。窪田幸子の口頭発表では、この返還を行うかどうかは先住民のグループが選択でき、再埋葬やトライブの博物館を作るなどのケースもあるが、博物館等に保存を委託する場合もあるらしい。また、世界中に散逸しているアボリジニの遺骨を返還するようにと政府が交渉を行っている。その他、カナダ、北欧諸国などでも順調に返還が行われている。イギリスの場合は、世界各地の先住民の遺骨を所持していて、それを返還することが課題である。

 日本では、長らくアイヌ民族を先住民族であるという認定をすらしておらず、2007年の「先住民族に関する国際連合宣言」の1年後にようやく国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」なるものがなされ、その後に既に要求が出ていた遺骨問題が公的に取り上げられるようになった。

 国連宣言の第12条には、以下の条文がある。

 【宗教的伝統と慣習の権利、遺骨の返還】  1.  先住民族は、自らの精神的および宗教的伝統、慣習、そして儀式を表現し、実践し、発展させ、教育する権利を有し、その宗教的および文化的な遺跡を維持し、保護し、そして私的にそこに立ち入る権利を有し、儀式用具を使用し管理する権利を有し、遺骨の返還に対する権利を有する。2. 国家は、関係する先住民族と連携して公平で透明性のある効果的措置を通じて、儀式用具と遺骨のアクセス(到達もしくは入手し、利用する)および/または返還を可能にするよう努める*8

 文科省は、大学や博物館を対象とした国内のアイヌ遺骨の調査を行い、12大学に1636体(2013年報告)、1676体(2017年報告)、博物館等12施設で76体(2016年報告)が確認されている*9。大学では北海道大学が最も多く収蔵しており、1000余体に及ぶ。北大の場合は、調査の入る以前から納骨堂を作り納めるなどしていたが、返還には応じていなかった。

 しかし2011年に基本的に返還という国としての方針が決まり、返還要求に応じた上で未返還の遺骨は白老に建設するウポポイ(民族共生象徴空間)内の慰霊施設に集約されることとなった。昨年2020年夏にアイヌ博物館が完成、ウポポイも開設している。それ以後も返還の要求には応じることとはなっているが、返還手続きの難しさや、これまで遺骨をキープしてきた大学等研究施設からの謝罪がないことからも、未だに不満が残ることとなっている。

 しかし、ラポロアイヌネイション(旧浦幌アイヌ協会)は中でも活発に返還運動を行っていたところ、2020年7月に東京大学を被告とした裁判で和解が成立して、8月22日に6体が返還・再埋葬された。これで道内外に要求していた102体の遺体すべてが戻り、再埋葬された、という新聞記事*10を見ると、若干心が安まる。

 

マオリのトイ・モコ返還

Maori Chief, New Zealand, 1891 (793bc21f-8278-4879-ae70-174c554e3302)
マオリ首長テ・ヒノ・テ・カワウ。
チャールズ・アップルトン・ロングフェローが1891年のニュージーランド滞在中に収集した写真。
English: National Park Service, Public domain, via Wikimedia Commons

 トイ・モコは別名モコモカイとも呼ばれ、マオリ人のタトゥーを施した首を燻し保存したものである。タトゥーを見れば所属するトライブや家系を知ることができ、トライブの有力者が亡くなると首を切り取って加工し保存することがなされていたし、また敵を殺害した時も同様の加工が施されていた。マオリにとって、モコ(タトゥー)は身分を示す貴重なものであったし、また頭部は身体の中で最も聖なる部位であった。

 1769年にキャプテン・クックがニュージーランドを訪れてから、現地ではたちまちヨーロッパ人との接触が盛んになっていった。マオリの顔のタトゥーはヨーロッパ人にとっては大変珍しいものだったようで、トイ・モコは早くから白人に売ることが行われてきた。クックに同行したジョゼフ・バンクスも、1級をマオリから購入したという記事がクックの日記に出てくる。クックは敵の首を白人に売るというのは侮辱という意味があったのではないかと解釈している。

 Donna YatesやAlice Procter*11によれば、トイ・モコは民族学的な骨董品としてたちまち人気の品となったという。捕鯨小説で有名なメルヴィルの『白鯨』にも、マオリらしき船員が剥製の首を売る話が出てくる。1820年から31年にかけてがピークで数百級の首が海を渡った。1831年にニュー・サウス・ウェールズ(オーストラリア)の知事が、シドニー港に首を持ちこむことを禁じ―これを禁じられると輸送はかなり難しかった―、1840年にワイタンギ条約*12が結ばれると下火となっていった。知事が禁止したのは、トイ・モコを作るために戦争が起こったり、捕虜や奴隷にタトゥーをしてトイ・モコを作ったりということが行われるようになったからである。

 マオリがトイ・モコを売る動機は、マスケット銃の入手だったとされている。マスケット銃1丁が首2級に相当したと記録にはある。白人との接触後に火器が入ってくるのはハワイもサモアも、トンガ、フィジーも、どの諸島でも同じである。どの地域でもすさまじい社会変動が生じており、諸島内での戦いが繰り広げられた。

 トイ・モコの記述において欠かせないのは、Horatio Gordon Robleyという収集家のことである。彼は兵士としてイギリスの植民地で任務に服した。その中にはニュージーランドも含まれていたが、収集は退役後の話である。ロンドンに戻った後、彼はもともとタトゥーに興味があり、トイ・モコの収集を始めた。彼が収集した34級の首を壁一面に飾って彼自身を記念撮影のようにして撮った写真がある。これをお見せすることは簡単にできるが、ここにペーストすることは躊躇した。1908年、彼はコレクションを1000ポンドでニュージーランド政府に交渉したが、取引が行われる前に、コレクションはアメリカ自然史博物館に1250ポンドで売却された。

 1980年にサザビーのオークションにタヴィストック侯爵所有のトイ・モコが5000~7000ポンドで出品されたが売れず、その8年後に同じものが別のオークションにかかったが、このときには、マオリとそしてロブリー双方の血を引くミュージシャンが介入して、最終的にはニュージーランドに返還された。

Te Papa Repatriation ceremony, 13 July 2018 (43386984462)
2018年にアメリカから返還されたトイ・モコ。
テ・パパ博物館で返還の儀式がマオリ式に行われた。
US Embassy from New Zealand, Public domain, via Wikimedia Commons

 ニュージーランド政府は、2003年に先住民トライブの協力を得つつ、テ・パパ国立博物館内にカランガ・アオテアロア返還プログラムを立ち上げた*13。このプログラムは世界中に分散したニュージーランドの先住民の遺体ならびにトイ・モコなど身体由来のものを調べ、返還要求をしていくのがその役目である。プログラムの代表者によれば、ちょうどよい時にこれが始まった。少なくとも成果を見る限り、それがいえる。それより前であれば、このような返還要求にはよい返事がもらえなかったであろうと推測している。2008年の論文には海外(欧米)の博物館等に要求したリストが出ているが、さらに2013年には例のアメリカ自然史博物館にも要望を送り、2014年暮れに35級のトイ・モコ、2体のタトゥーを施した腿の皮膚、24体のモリオリ*14の遺骨、そして46体のマオリの遺骨の返還を受けることができた*15。ロブリーが売却したはずのトイ・モコの数とは微妙に違うが、おそらくすべて取り戻したことになる。テ・パパ側はこれが最大の返還、と評価している。

 同プログラムは、国内の研究施設等の保持していた遺骨やトイ・モコについても調査を行い、返還の手続きを行ってきた。ただし海外からやってくるトイ・モコは所属が分からないものも多く、テ・パパに安置して現在調査中のものも少なくない。

 この活動は現在も継続中で、昨年(2020年)12月にもベルリンの民族学博物館から2級のトイ・モコが返還され、マオリの人々による儀礼が行われたという記事*16がある。

 

文化財の返還へ

 さて、それではニュージーランドの場合、文化財の返還はどうなっているのだろう。深山直子が私の照会に応じて探し出してくれた新聞記事*17によると、テ・パパにできたプログラムは遺骨等の返還だけを扱い、タオンガ(宝物)の返還要求はしない、というのが政府の方針だそうだ。文化遺産省の局長によれば、文化財の返還請求は相手方にも同じ請求を認めるので、うかつにはできないということのようだ。確かにヨーロッパ系の文化財もあるし、何よりオセアニアの島嶼国文化の貴重なコレクションもある。

 しかし、全く文化財の返還が行われていないということではない。私的なコレクションを返還してくれる人や、トライブの持つ小規模な博物館が特別展示を行うためにヨーロッパの民族学博物館などが貸与してくれることもあり、偶然オークションで見つけたといって送ってくれる人もいる。

 そのような中で、この章の最高のクライマックスは、テ・パパが所有していたハワイの王様の羽毛でできたケープを返還した話である。

 キャプテン・クックは第三航海の途上、1778年1月にカウアイ島に上陸し、その後夏の間にベーリング海峡からアラスカ沿岸を探検した後、暮れに再度ハワイ諸島を訪れ、今度はハワイ島(ビッグアイランド)の周囲をゆっくり航行した後、翌1月に西側ケアラケクア湾に投錨した。ハワイ島では収穫が終わった祭りの季節で、ハワイ人から熱烈な歓迎を受け、帆船の修理のために長逗留となるが、その間王族と親しく交流した。当時ハワイ島を支配していた王はカラニオプウであった。後に諸島を征服統一して王朝を作ったカメハメハは彼の甥である。カラニオプウ王は歓迎の印として、彼の来ていたケープ(アフ・ウラ)を脱いでクックに渡し、被っていたヘルメット(マヒオレ)をクックの頭に被せた。ケープは黄色と赤色の鳥の羽毛を抜いて作ったもので、ヘルメットも同じ羽毛を埋め込んで作ってある。無数の鳥を捕まえては羽毛を抜いて作るのであるから、大変時間も手間もかかる貴重なもので、両方ともに高位の王族のみが纏うことのできるものであった。このときクックは代わりにリネンのシャツとサーベルを献上している。

 そしてそれほど時間がたたないうちに、クックはちょっとしたいざこざからハワイ人の手により殺されてしまう。従って、カラニオプウのケープとヘルメットをイギリスに持参したのは、クックの部下たちである。イギリスに持ち帰られてから、この宝物は博物館で展示されたこともあり、貴族の手から手へと所有者が代わることとなった。19世紀の初め頃から、ある貴族の一家の所有となり100年を経て、しまいにニュージーランドのドミニオン博物館(テ・パパの前身)に1912年に寄贈された。

 2016年3月にオークランドで開催されたパシフィック・アート学会の研究大会で、テ・パパの馴染みのキュレーターに会い、彼女の上司のショーン・マローンがいないのに気付いた私が訊ねると、カラニオプウのケープをハワイに返却することになり、そのためにハワイに出張したとのことであった。一応10年の貸し出しなのだが、もう戻らないでしょうね、と悲観的な顔をしていた。

 マローンが中心となり書かれた報告*18がある(ケープやヘルメットのカラー写真も含まれている)。それによれば、テ・パパでもケープとヘルメットは大変大事に扱い、重要な所蔵品として防弾ガラスのケースに入れて展示も行っていた。また、ハワイのビショップ博物館で行う特別展示に貸し出すこともしていた。ウェリントンにあるハワイ文化センターとの交流もあり、儀礼が必要なときも頼んでやってもらっていたし、ハワイから学者がやってくることもあった。そうした中で、最初は丁重だったハワイ人たちが次第に本音で話し始めて、彼らの展示品に対する熱い思いが表出する場面があり、「なぜこれがここにあって、ハワイにないのだ」といった問いを半ば暴力的にぶつけてくる人もいたようである。次第にマローンだけでなく博物館の上層部の人々も、ただならぬハワイ人の執着に圧倒されるようになった。そうして、とりあえず10年間の貸与という形でハワイへの返還が行われることとなった。ハワイ人を代表するのは、ハワイ州のハワイ人問題事務局とビショップ博物館である。

 以下のハワイ人問題事務局作成の映像は、ケープとヘルメットをハワイ人たちが受け取りに行く淡々としたものであるが、挨拶や儀礼の中では互いにポリネシア人であり、先住民であるという交流の気持が伝わってくるものとなっている。ちょっと長いが是非ご覧いただきたい。

https://www.oha.org/kalaniopuu

 クックはカラニオプウから無理矢理ケープとヘルメットを奪ったのではなく、それぞれの持ち物を交換したのであるから、所有権の移転は明かである。それなのにハワイ人たちが返還にこだわるのは、筋違いだと言って退けることもできたのに、どうしてそうしなかったのか、と私は不思議に思っていた。しかし、多分マオリの人々は、ハワイ人たちにとってのタオンガ(貴重な品)が、ハワイ人たちにとって何を意味するかをよく理解できていたからなのだろう。タオンガを譲り渡す、でもそれは、長い旅路を終えて帰っていくタオンガと、それを一時的に所有していた人々との関わりを断ち切るわけではないのだと思う。それを保持しうるのだと思いつつタオンガを返還した英断をリスペクトしたい。

 

 このビデオは希望である。世界史的にいえば、決してメジャーとなることのない人々の暮らしを調査し、考察を巡らしてきた私の営みも、ここで一段落を迎える。彼らを通して世界を理解しようとしてきた私は、さまざまな無形のタオンガを得ることができた。ありがとう。

 

*1:英語のhuman remainsに対応し、遺髪や皮膚なども含むので「遺骨等」とした。また同時に副葬品なども含んで扱われる場合もある。

*2:遺体の保存をする加工で、北米などで埋葬前に行われることが多い。

*3:遺体はドライアイス漬けにして飛行機で運ぶので、大変なお金がかかるが、サモアで葬儀を行うことに意義がある。そうして、規定の儀礼後に大家族の住む家の傍らに墓を作る。もちろん、それが望めないサモア人もいて、その場合には現地で埋葬される。

*4:トルコ政府の文化財返還交渉については、田中英資が詳細に書いている。田中英資(2014)「『Win-Winな解決方法』か『脅迫』か―トルコによる国外流出した文化遺産の返還要求に関する最近の動向」『福岡女学院大学紀要 人文学部編』24号。

*5:五十嵐彰(2019)『文化財返還問題を考える―負の遺産を清算するために』岩波ブックレット1011。一部返還・贈与に応じているが、まだ道半ばといってよい。それらは、植民地時代に日本人、日本の機関が持ち帰ったものがほとんどであるが、日本人による民間のコレクションもある。一方で、対馬の寺院に保管されてきた朝鮮半島由来の仏像や経典が盗難に遭い、それが韓国に存在していることが確かめられたが、まだ一部しか戻ってきていない。

*6:このあたり、40年前に出版されている以下の論文は興味深いものがある。Geoffrey Lewis (1981) The return of cultural property. Journal of the Royal Society of Arts 129(5299). 両者の主張はあまり変わっていない。

*7:加藤博文(2018)『先住民族の遺骨返還―先住民考古学としての海外の取り組み』先住民考古学シリーズ第1集、北海道大学アイヌ先住民研究センター先住民考古学研究室。

*8:先住民族の権利に関する国際連合宣言(仮訳)

*9:文科省ホームページ、2013年、2016年、2017年。

*10:朝日新聞デジタル(北海道)(2020/8/23)「東大から返還、アイヌ遺骨を再埋葬 浦幌の団体」

*11:Donna Yates (Oct. 2013) Toi Moko. Alice Procter (2020) The Whole Picture: The Colonial Story of the Art in Our Museums & Why We Need to Talk about it. Cassell.

*12:北島の北方、ワイタンギの地にマオリの首長を集め、彼らの権利を保障しつつ、実質的にイギリスに支配をゆだねる条約を締結させ、ここからイギリスのニュージーランド支配が始まった。

*13:Herekiekie Herewini (2008) The Museum of New Zealand Te Papa Tongarewa (Te Papa) and the repatriation of Kōiwi tangata (Māori and Moriori skeltalremains) and Toi Moko (mummified Maori tattooed heads). International Journal of Cultural Property 15.

*14:ニュージーランド本土の東にあるチャタム諸島にいた先住民。チャタム諸島は現在ニュージーランドの特別領となっている。

*15:https://www.tepapa.govt.nz/about/press-and-media/press-releases/2014-news-and-media-releases/largest-repatriation-ancestral

*16:https://www.dw.com/en/german-museum-returns-mummified-maori-heads-to-new-zealand/a-55246975

*17:New Zealand Herald (2007 Jan. 24) No policy for reclaiming taonga. 

*18:Sean Mallon et.al. (2017) The ‘ahu ‘ula and mahiole of Kalani‘ōpu‘u: a journey of chiefly  adornments. Tuhinga 28.

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