オセアニアの今―伝統文化とグローバル化

サモアを中心に40年以上オセアニア研究に携わっている山本真鳥さんが、オセアニアの島々の人々と続けてきた交流の中に見えてくる「風景」を余すところなくつづります。

第15回 オセアニア・アート

 昨年公開された『アートのお値段』というドキュメンタリー映画は実に興味深かった。原題はアートに限らず、”The Price of Everything”というのである。資本主義の進んだこの世界では何でもが取引の対象となりうる。売る人と買う人がいれば、オークションが成立する。サザビーズやクリスティーズというオークションの業者がその場を設定して、もっとも高値の人が買う権利を得る。株式の取引に似ているともいうが、こちらの方がずっと利殖率が高い。ジェフ・クーンズ作の風船のウサギをかたどった金属製彫刻の持ち主は、1991年に94万5000ドルで買ったが、撮影時(多分2018年)には6500万ドルに値が上がっているという。株で儲けるよりもこちらの利殖法の方がずっと効率がいいに違いない*1。ちなみに、オセアニア・アートは、クーンズの作品ほどの高値はつかないが、文化財に相当するような骨董品的なものに関して、現代でもオークションにかけられ、売買が成立しているのである。サザビーズの昨年12月のオークションの記録は以下に、
https://www.sothebys.com/en/auctions/2019/arts-doceanie-pf1958.html?locale=en
またクリスティーズのものも以下にあり、本年も取引が行われている。
https://www.christies.com/features/The-art-of-Oceania-a-guide-for-new-collectors-9769-1.aspx?sc_lang=en&lid=1
高価なものになると、数百万ユーロもしていることに驚きは隠せない。

 今回はそのような、骨董品でもあり、博物館展示物でもあり、アートでもあるようなオセアニア発の作品について考えて見よう。

 

オセアニア・アートあるいは、骨董品、珍品

 一方的とはいえ、太平洋の人々とヨーロッパ人との出会いが始まったのは16世紀に遡るが、人々の社会や生活が少しでも知られるようになったのは、18世紀後半にキャプテン・クックがこの領域を探検踏査し、詳細な航海日誌を公開した頃からである。博物学がここで始まったともいえる。この探検踏査の旅には、学者や画家が同行して記録をとり、クックは毎日詳細な日記をつけた。同時に動植物から生活必需品や装飾品に至るまで、様々な標本を持ち帰り、やがてそれらは博物館に収蔵されたのである。

 クック以降も、探検家冒険家たちが未開地から持ち帰った様々な物質文化の標本は、オセアニアに限らずアフリカや中南米からの事物も含め、博物館や収蔵庫に収められた。当時は異社会・異文化の研究用の標本であり、アートというよりは博物学的な意義が大きかった。英語でキュリオ(キュリオシティ=好奇心)と呼ぶ珍しいもの、骨董品としても扱われた。学者にとっては研究の対象である一方、好事家は好んでコレクションとした。19世紀の西欧的、古典的なアート概念から外れるこれらのものは、その新しい美的感覚を愛でる人々はいたものの、アート作品と考えられてはいなかった。

Moai at Rano Raraku (Easter Island)
モアイ像(イースター島にて)。
Mc vc, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 

Mask, Elema, New Guinea, 1895 - Südseeabteilung - Ethnological Museum, Berlin - DSC00927
ニューギニア・エレマ族の仮面(ベルリン民族学博物館所蔵)。
Daderot, CC0, via Wikimedia Commons

 

GE 2011.21 Asmatshield
ニューギニア・アスマット族の盾(ゲント大学民族学博物館所蔵)。
Diethard, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 

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フィジーの戦闘用棍棒(フィジー博物館所蔵)。2017年、山本真鳥撮影。

 

Young women and kava bowl, Samoa, ca. 1899-1940s
カヴァ飲料を作るサモアの娘たち。中央に見えるのがカヴァ・ボウル。
Malcolm Ross, Public domain, via Wikimedia Commons

 

Siapo mamanu (tapa cloth) - Google Art Project
サモアの樹皮布(シアポ、ニュージーランド・テパパ博物館所蔵)。
Museum of New Zealand Te Papa Tongarewa, Public domain, via Wikimedia Commons

 

 オセアニアから到来したものとしては、モアイ像(イースター島の石像、一定のスタイルの巨大石像が数多く島に存在する)を含めた石像や木彫像(オセアニア各地にそれぞれの様式をもって存在する)、仮面(メラネシアが有名だが、ミクロネシアにもある)、カヌーの舳先や艫(とも)の装飾(メラネシア各地のものが有名)、戦いの盾(アスマットの盾を始め、そのデザインに特徴あり)や棍棒(フィジー、サモアなどの棍棒は有名、戦いの道具だった)、儀礼具(アスマットのビジポールなど)、王や首長の位を示すもの(ハワイでは赤と黄の小鳥の羽で作ったケープが王族の印であったし、王や首長のもちものとされるハエ追い*2や杖)や器(うつわ)類(ハワイの木のボウル、カヴァ飲料を作るボウル)、衣類(樹皮布はオセアニア各地に存在した衣類で、樹の皮を叩き延ばしてつくり、染色や文様などにそれぞれの諸島の特徴がある)、ベルトや首飾り、櫛など数々ある。オセアニアという地域は、3つの文化圏(メラネシア、ポリネシア、ミクロネシア)からなるとされているが、それぞれに地域文化の広がりは異なっているし、ヨーロッパ人が来る前に地域としてのまとまりが存在していた訳でもなく、伝統文化は多様であった。だからこれらの「もの」には、宗教観念、神話、世界観、生活様式などと併せた研究が必要となる。

 やがて20世紀になると、それらは当時の新しい芸術思想を求める一部アーティストの間でトライバル・アート(ないしはプリミティヴ・アート)としてもてはやされるようになる。ピカソがこれに興味を持ったことは有名であるが、同様にシュールレアリスムのアーティストたちも大いに興味をそそられたという。アンドレ・ブルトンもトライバル・アートに言及している。確かに珍しい装飾が施され、写実主義の逆をいくような造形・デザインは、ヨーロッパ人の出会ったことがない様式のアートであり、ヨーロッパ人アーティストにとっては衝撃的な出会いであっただろう。

 

古典的オセアニア・アートの世界

 オセアニアの骨董品ないしはトライバル・アートというジャンルは19世紀に誕生し、それらに価値を見いだした一部のヨーロッパ人の間で、それを購入する博物館やコレクターが存在するようになり、「オセアニア・アート」のマーケットが生まれた。オセアニア・アートは当時のヨーロッパの美術界では認められない存在であったが、それなりの需要はあり、個人コレクターも存在した。売るために彫像や仮面を求めて、オセアニア(特にメラネシア)の沿岸部から奥地へと旅する冒険者が登場するようになった。

 以下に取り上げるマランガン彫りは、そのような「オセアニア・アート」のはしりである。これは、ニューアイルランド島*3に産する彩色を施した透かし彫の彫刻である。見事な作品は、彫刻として、そのテクニックや様式において、まさにアートと呼ぶに相応しいと思えるが、現地社会でのこの作品の生産は、欧米も含めたわれわれの世界のアートとはずいぶんに異なる。以下、マランガンの研究を行ったキュヘラーの論文*4に基づいて記述する。

 

Display of Malagan objects from Northern New Ireland, Otago Museum, 2016-01-29
ニューアイルランド島のマランガン彫刻(ニュージーランド、オタゴのオタゴ博物館所蔵)。
Szilas, Public domain, via Wikimedia Commons

 

 マランガンの彫像は、一連の葬儀の最後の儀礼に用いられるが、そのデザインやいろどりには一定の権利を子孫に委譲する事を示す意味があり、それを世に知らしめるためにマランガンが開陳される。そして、その後間を置かずにこれは破壊されることになっていた。人々が所有するものは、マランガンそのものではなく、マランガンのイメージであり、そのイメージが親族集団の土地相続などに関わっている。1人の人がマランガンのイメージを複数所有するとしたら、マランガンは権利の束のようなものであり、束は分けて相続されるから、別の人の葬儀にはまた別のイメージの組み合わせとしてのマランガンが作られるわけで、二度と同じ彫刻のマランガンは作られない。本来は破壊されるはずであるが、それを破壊するかわりにヨーロッパ人に売ってしまえば、二度とそれが現地人の目に触れることがないのでコミュニティに影響はないと考えられるようになって、マランガンの多くが儀礼終了後にヨーロッパ人バイヤーに転売されるようになった。それらはヨーロッパの博物館や美術館、ならびにコレクターの邸宅や収蔵庫に収められることとなったのである。マランガンを売って得た金銭は、次のマランガンを制作するために使われた。キュヘラーは、この売買は1840年代から始まっていたと推測し、4000体ほどがヨーロッパに存在することが確認できるとする。

 これだけ数がありながら、同じ物は全く存在しないらしい。コピーするということがなかったということである。ここで注目すべきことは、ヨーロッパの博物館では、ニューアイルランド島で作られていたシンボリックな意味や用途とは全く異なり、彫刻本来の美学的価値でもって讃えられていたということである。

 現地の人々にとっては道具であってもそこには心霊と関わる印が刻み込まれていることはよくあることだ。船の舳先や艫に施された像は概ねそうした意味を持っている。トロブリアンド諸島のクラの船にも装飾が多分に施されているが、その文様は意味がある。短い儀礼を行って呪文を唱えることは映像記録でも出てくる。ニューギニアの男子小屋の中の彫像は概ね神像であり、それらはシンボリズムに満ちあふれていた。

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トロブリアンド諸島のクラ・カヌー(沖縄海洋博公園海洋文化館所蔵)。山本真鳥撮影。

 

 ヨーロッパで収集されたコレクションは、あくまでも造形のすばらしさで集められたもので、これらシンボリックなものにまつわる語り、意味、呪文などは物質文化研究の中では調査されていたものの、造形芸術として収集されたコレクションではあまりない。アートの由来として説明されることはあるが、多くは切り離されていることが多かったといえよう。そうした文化的なコンテクストにこだわらずに収集が行われる傾向が強かった。

 そして人類学研究者は文化的背景を研究しながらそれらの標本/作品に接するかもしれないが、ほとんどコンテクストが失われた状態の博物館展示は一般人にはどのように見えているのだろうか。天理参考館の常設展のひとつ「パプアニューギニア・精霊宿る仮面や木像」をご覧いただきたい。

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ナレーションでは「何ともユーモラスな仮面や木造」と述べているが、そこまで神聖性がはぎとられてしまっているのに驚いた。実は部族も背景も異なる木像群ではあるが、これだけ集まると、何となく荘厳な気分がしないだろうか。全体に暗い照明はその気分をかき立てる。しかし、コンテクストを剥奪し、解釈の余地を広く残すことこそが、植民地化と大いに関わるところでもある。オセアニア・アートは、オセアニアのものではなく、ヨーロッパ人のものなのだ、というテーゼも成り立つ。オセアニア・アートの名の下にカテゴリー化し、収集したのはヨーロッパ人なのだから。

 

博物館とオセアニア・アート

 これらの骨董品(珍品)は20世紀の始まりを迎える頃から、次第にアートとして見なされる局面が増えていった。しかしこれが完璧にアートであると今日でも考えられているかどうかは難しい。トライバル・アートがどのように扱われていったかを、フランスに例をとりながら考えて見よう。以下は、パリにあるケ・ブランリ博物館(非ヨーロッパ世界のアートを展示する博物館)のHPに書かれている発展の歴史や、その他の情報をまとめたものである。

 非ヨーロッパ世界からの収集品のために、1878年にトロカデロ宮の中にトロカデロ民族誌学博物館が設立された。この博物館は名称の示す通り、民族学、民族誌学、あるいは人類学的な研究を目的とした博物館で、世界各地に派遣された調査団等の持ち帰った資料(標本)が次々に集まり、また集めようとした結果、コレクションは倍増していった。1907年にピカソがここを訪れたときには、湿気が高く腐敗臭が鼻をついたというので、管理は行き届いていなかったようだ。しかしフランス各地のローカルな博物館にも同様に収集品が集まるようになり、それらもトロカデロに集まってきた。もともとトロカデロ宮は万国博覧会のために建てられたのであるが、1937年に計画された新しい万博のために老朽化した建物を撤去し新しく建築することとなった。同じ場所に建てられた建物はシャイヨー宮という。その中にトロカデロにあった標本が移されて人類学博物館が設立されたのである。ここは博物館であると同時に人類学の研究所も兼ねていて、CNRS(国立科学研究センター)の一翼を担うものとなっている。

 一方、海外植民地からのコレクションを中心に、1931年に開催された植民地展覧会の展示物をもとに1935年に海外フランス*5博物館が設立され、1961年にはアフリカ/オセアニア・アート博物館と改名した。さらに1990年にはこれが国立アフリカ/オセアニア・アート博物館となっている。ここは明かに人類学的研究というよりは、アートとして鑑賞するための博物館であったと思われる。

 さらに政府が大がかりにこれらの収集物を再編し設立したのが、ケ・ブランリ博物館である。ここは、国立アフリカ/オセアニア・アート博物館が母体となっているとはいえ、その収蔵品の多くは人類学博物館から移管されたものである。非ヨーロッパ世界のアートとしてこれらの収集品を展示することと、その研究を行うという二重のミッションを自らに課している。ケ・ブランリ博物館は一度訪れただけだが、地域別展示(従来の民族学、人類学博物館的展示)と共に、地域別の壁を取り払っていくつかのカテゴリーに分けて展示することも行う一方、時宜に応じたさまざまの特別展も行われている様子だった。

 オセアニア研究を行っている日本人の同僚と面白い会話を交わしたことがある。この同僚は、ケ・ブランリ博物館は大阪にある国立民族学博物館(以下、民博)と同じだというのである。同じだというのはちょっと言い過ぎで、民博は地域区分が主となっていて、ケ・ブランリと比べたら数倍の展示スペースをもち、一応人類学や文化史学の成果にそった展示となっている点で大きく違う。しかし、おそらく一般の方が見たら、同じに見えるかもしれない。民博は実は、訪問者がかならずしも多くなく、増やそうといつも努力しているが、目立って増えているわけではない。吹田市の千里万博公園内に位置し、大阪市の中心からも遠く、駅からもそれほど近くないというデメリットと格闘している。一方ケ・ブランリはパリの中心部シテ島の中に位置していて交通の便は申し分ない、という側面がある。しかし同僚は立地とは違う意見を持っていた。同じものを展示しているのに客の入りが違うのは、あちらはアートで、民博は民族学だからだ、アートだから人々が押し寄せるのだ、という。

 2014年に日本文化人類学会が主催して、国際民族学人類学会議の中間会議を日本で開催した。そのときに国立新美術館(六本木)にて民博の収蔵品を美術館のキュレーターが企画して展示する『イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる』展も開催された。

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民族学博物館の人々と初日に会ったところ、地域という枠を取り払った展示が実に新しい息を展示物に吹き込んだ、と感心していたのが印象的だった。いつもの民博の入りと比べたら結構な観客動員力であったという。しかしその後、同じ展示が民博で特別展となったあと、国内何カ所かで巡回展となったが、東京ほどの入りはなかったらしい。もちろん、立地の問題もあるが、民族学資料をアートとして見る視点が、まだ日本には育っていないということなのではなかろうか。

 人類学ではアルフレッド・ジェル*6以来、アートの概念が広がり、アートが人類学の研究対象となるようになってきた。グローバルには多文化主義がアートの分野にも持ち込まれて、アートの概念の拡張は美術史などアート研究の分野にも及び、従来より格段に研究対象は広がっている。アジアの伝統的アートの愛好家がいたり、オーストラリア・アボリジニの絵画や染物が高値で取引されたりするようになってきた。このようにアートの枠組みを広げていく世界的な潮流は、日本全体ではまだないが、東京には一部入ってきている。国立新美術館で開催された2008年のアボリジニ現代アーティスト、エミリー・ウングワレー展は結構な入りであった。しかし全体的に見れば、まだ日本は西洋美術史で名の知れたモネやヴァン・ゴッホ、フェルメール等の展覧会や、ルーブルやペテルスブルグ、オルセーなど有名美術館らの出展は確実に観客動員できるが、非西欧のアーティストは人々の視野に入っていない*7。残念なことだ。

 

日本のオセアニア・アートのコレクター、今泉翁の夢

 2000年頃に都立大学大学院で非常勤講師を務めたとき、トーマスの『オセアニア・アート』*8を教科書とした。その頃、多分山口昌男氏にご教示いただいたような気がするが、埼玉県鶴ヶ島市の教育委員会が篤志家から寄贈を受けて、オセアニア・アートの膨大なコレクションを持っているとの情報を得て、大学院生を連れて見せてもらいに出かけた。鶴ヶ島市は寄贈を受けて市立の博物館を建設する動きがあったが、市長の交代に伴い、それが実現できなくなった。廃校になった小学校にオセアニア・アートの作品を収蔵してあり、見たいと希望すると、教育委員会の職員が鍵を開けて見せてくれるということになっていた。

 そこでアポをとって出かけたのであるが、その膨大な作品群に院生ともども圧倒されたのをよく覚えている。アスマットの盾は数限りなく置いてあり、またビジポールも何本も無造作に床にころがっていた。マランガンもあったし、樹皮布でできたお祭りの仮面もあった。トーマスの本に出てくるアイテムの実物がほとんど見られるのである。ただし、中心はメラネシアのアートであり、ポリネシアは少しばかり、ミクロネシアは全くなかったように記憶している。

Asmat bis poles from Indonesian New Guinea - the poles are named for deceased people and the huge phalluses on top represent fertility. - panoramio
アスマット族のビジポール(インドネシアパプア領)、(ニューヨーク、MOMA所蔵)。
olekinderhook, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

 

 これらを寄贈した今泉隆平という実業家は、新潟県塩沢町(現南魚沼市)の出身で埼玉県在住の牧場経営者であった。ここは、今泉のためにオセアニア・アートの収集のエージェントとなった大橋昭夫*9の体験から抽出する。大橋はパプアニューギニア政府から委託を受けて、1983年から1986年の間神保町でギャラリー「パシフィックアーツ」を営んでいた。1975年に独立したばかりのパプアニューギニア政府は、文化財保護のために美術品の輸出を禁じていた。しかし一方で、特に収入のあてのない人々の間からは輸出再開が望まれていた。そこで政府は各村の文化財に相当する美術品をリストアップした後、美術品の輸出を政府の管理下で行おうとした。その政府の意図の中で東京で市場開拓をするための人材として大橋がスカウトされたのである。

 今泉はパシフィックアーツを何度か来訪した後に、自分の出身地にコレクションを寄贈する目的でオセアニア・アート(パシフィック・アート)を買い求めたいので協力して欲しいと依頼したということである。今泉は当時80歳にならんとする年齢であった。大橋は今泉の代理人として、パプアニューギニアの主としてセピック川流域の村々を訪問して、直接買い求め、またパプアニューギニア各地でギャラリーを経営するアート・ディーラー、さらにオーストラリアのディーラーとの取引や情報交換をしながら作品を集めた。その努力は大変なものである。また先に述べたサザビーズやクリスティーズのオークションで求めたものもあるという。翁が亡くなった1997年までの11年間、大橋の粉骨砕身の努力で、今泉コレクションができあがった。今泉翁は出身の新潟県塩沢町に町立今泉博物館も建てて、そこにオセアニック・アート作品6480点を納入した。ごく一部が塩沢町の寺にあるが、それ以外の1725点が鶴ヶ島市に寄贈されたものである。

 私たちが訪れた時、鶴ヶ島市教育委員会の職員たちの間では、そのうち博物館が建つのではないかという期待が消えつつあったように思う。それでも国内で展覧会を開催したいという申し出に応じて、作品を貸し出すことをしたり、国際交流としてニューギニアの都市(確かマダンかウェワクだったと思う)と姉妹都市を結び、現地に子どもたちを送ったり、ニューギニアからの客人を招いたりしていた。また、2月の週末に子どもたちを集めてスネークダンスなどの催しをするというので、訪問したこともある。そのときはコレクションを自由に見学できた。

 しかしついに、湿気や虫害のために小学校の校舎で作品を保管するのが限界に達し、作品は他に設備の整ったところに寄贈することになった。2009年には、天理大学*10(467点)、南山大学*11(168点)、早稲田大学 (1,086点)のそれぞれに作品を譲与した。多分あれだけの量の作品を1機関ですべて引き受けることは難しく、分割という結果になったのであろう。

 一方の町立今泉博物館は、民博よりさらに交通の便が悪く、知っていても訪れる人も少ない。私自身もまだ訪れたことはない。またオセアニア・アートの専門家がいないようなので、管理している側もおっかなびっくりのところがあるのではなかろうか。ホームページで見るところ、次第にオセアニア・アートの展示場は縮小しているように思う。2012年に今泉博物館は今泉記念館と名を変え、1階は道の駅、2階がアートステーションとなった。常設展として棟方志功の作品展示があり、今年、今泉コレクションは「南国の摩訶不思議な世界」として、6月20日から11月15日までの開催となっている。

 

 今泉翁の夢はまだ志半ばである。しかし、海外のコレクションと比べて、今泉コレクションは勝るとも劣らない。素人目ではあるが、私が見たところ、オセアニア・アートに関してはケ・ブランリよりも優れたものを数多く持っているのではなかろうかと思う。地の利に恵まれないことはある。しかし、多文化共生の世の中なのに、内実は欧米以外の異文化の良さになかなか目を向けてきていないことが、こんなところでばれてしまう。アートは高尚なものではない。子どもから大人まで、異文化の異なる目でものを見ることを楽しんで欲しいと思う。

 今回は、オセアニア・アートとして、今はもう作られていないような骨董的なアートについて述べることに集中してしまったが、この中にはヨーロッパ人バイヤーが活躍するようになってから作られたものも実は含まれており、それがやがてツーリスト目当てのお土産生産につながっている。また、ヨーロッパ的な絵画・彫刻の技術やコンセプトを獲得して、伝統文化との狭間で全く新しいアートを造りだそうとしている人々もいる。それらについて、また稿を改めて書きたい。

 

※次回は1/29(金)更新予定です

 

*1:とはいえ、監督のナサニエル・カーンはそのようなアート界の狂騒をどこか冷たい目で見ている。アーティストは多くの人に見て欲しいと思うので、博物館の方がいいという人もあるが、サザビーズのマネージャーは「ふん、あれは墓場よ」という。

*2:お坊さんがもつ払子(ほっす)のような形状。実際にハエを追う機能があるわけではなく、地位を示すものとなっている。

*3:ニューギニア島の東に位置し、現在は独立国パプアニューギニア、ニューアイルランド州。ドイツ領であったが、第一次大戦後はオーストラリアの傘下に入り、パプアニューギニアとして1975年に独立。

*4:Susanne Kuchler (1987) Malangan: Art and memory in a Melanesian society. Man NS. 22(2) : 238-255.

*5:フランスの植民地、海外領土のことである。海外県や領土からの事物を展示するのが、海外フランス博物館の目的だった。

*6:Alfred Gell (1998) Art and Agency: An Anthropological Theory. Clarendon Press. 遺作として出版された同書は、人類学的アート研究の一時代を画するテキストとなった。

*7:福岡アジア美術館を訪れた際には北野武展が開催されていた。特別展のチケットを買うと、常設展のアジア人作家の作品展にも入場可能であったが、武展は大入りであるのに、常設展を訪れる人はほとんどいなかった。

*8:Nicholas Thomas (1995) Oceanic Art. Thames & Hudson.

*9:大橋昭夫(2005)「現代文明への警鐘―鶴ヶ島市「オセアニア・コレクション」の意義」埼玉県鶴ヶ島市教育委員会編『オセアニア美術にみる「知流」を超えるもの』里文出版。

*10:天理大学参考館のオセアニア展示は先にビデオを紹介した。

*11:南山大学人類学博物館では、コロナ禍の中、今泉コレクションのオンライン展示を行っている。

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